短編小説『光の跡』
見上げた東京スカイツリーはちょうど左半分が手前に立っている商業ビルに隠れていた。右半分はライトアップされているのが見え、下の方は紫色に光っており、塔の上に向かっていくにつれて紫色から白へとグラデーションしていた。
押上駅の改札を出て、駅前のロータリーに出た時に最初に目に飛び込んできた光景がそれだった。僕の隣には今日初めて会った友だちのお母さんがいた。僕の今日の役割というか、任務はお母さんが無事に蔵前にある彼女のマンションに帰れるところまで送るというものだった。
僕は下の名前からその友だちをノンと呼んでいた。ノンは一月二十七日の朝に亡くなった。その日の午前中にラインで連絡をしていた。すぐには既読にはならず、返信が数日後ということはこれまでにも何度かあったから、いつものことだと思っていた。それでも三日ほど経つと少し心配になった。いつもならそんなことにはなかったと思う理由があった。
ノンと最後に会ったのは、年が明けた一月十三日に新宿マルイ本館八階にあるシアターマーキュリーという劇場で朗読劇を観た時だった。夕方前に新宿に着いて待ち合わせの時間まで少し余裕があったので外を歩いているとみぞれまじりの雪が降ってきた。服についたものは指で触るとすぐに溶けてつるりと路上に落ちていった。次第にみぞれは白い雪へと変わり、その量も多くなって風も横殴りの強いものになっていった。二〇二四年の東京の初雪だった。
朗読劇は一時間四十分の上演時間だった。椅子も座り心地が悪く、空調が効いていないのか場内は暑かったため、舞台に集中するのが難しかった。途中でのど飴を舐めていた彼女は僕にも一つくれた。普段ここではお笑いライブをやっているようだったが、漫才にしろコントにしろ、ひと組の出演時間は長尺にならないだろう。集中力がいる朗読劇はここではあまり向いていないように思えた。
ノンは待ち合わせした時から体調があまりよくないと話していた。いつも舞台を観にいった帰りにはどこかに寄って飲んだり食べたりするのがセットだったが、観ているうちに貧血気味になったらしく、今日は無理だから次回にしよう、ごめんねと言われた。朗読劇を観終わってから同じ階にあった喫煙ルームで彼女が電子タバコを吸うのに付き合った。僕は喫煙者ではないが、飲みにも行かないのでここで少し話をしたかった。
誰かが残していったタバコの空き箱には唇がひどく爛れたような写真が使われていて、目に入った瞬間にギョッとするようなものだった。手に取ってみると日本のものではなく、ハングル語が書かれていたので韓国のタバコだと分かった。彼女はそのタバコの箱を一目見たけど何も言わず、電子タバコを吸っていた。数年前に一度タバコをやめたが、この数年のコロナパンデミックによって部屋で仕事をすることが多くなって復活していた。
先ほどの朗読劇の感想を言いながら、次は何を観に行こうという話やお互いに好きなバラエティやラジオのことを話していた。いつもの、二人が会った時の日常だった。お互いに帰りの路線は違うのでビルを出て別れることになった。
夜の新宿はもう雪に白く染められていて、初雪だねえと笑いながら彼女は手を振って地下通路に降りていった。僕が見た最後の彼女の姿だった。
ラインをしてから四日後の一月三十一日の夕方、僕はリモートワークでウェブサイトのスタッフの仕事を自宅でしていた。スマホが震えて誰かからメッセージが届いていた。送信者はノンだったが、そこには母ですという言葉から始まっていた。
画面を見た瞬間に飛び込んできた言葉は「亡くなりました」という言葉だった。混乱するよりも早く、その文章がなぜだか本当のことだとわかってしまって僕は泣き出してしまった。涙で潤んだ目でスマホをもう一度見る。二十六日に突然倒れて、二十七日の朝に脳梗塞で亡くなった。時間があれば連絡をもらえないかとお母さんは書いていた。僕はしばらくスマホを見ながら呆然としていた。
僕が二十七日にラインした時にはすでに彼女は亡くなっていたこと、雪の日に見た彼女は体調が悪いと言っていた、それらが繋がっていく。あの日の夜には無事に帰ったという連絡はもらっていたから安心していた。だけど、二週間前に会った友だちが亡くなったという事実は僕を混乱させた
上京した年に出会ってから僕たちの付き合いはもう二十二年になる。岡山県井原市で生まれた僕は高校から隣の笠岡市にある商業高校に通ったあと、大阪の商業大学に入った。だけど、幼い頃からお笑いが好きで大阪に憧れていた僕はうまく馴染めなかった。大学自体は奈良に近い場所だったが、周りには関西出身者が多く、なんとか関西弁を話そうと思ったが、自分が話している言葉は「なんちゃって関西弁」みたいで気持ち悪くかったし嫌だった。それで岡山でいた時と同じような話し方に戻した。
夏休みが終わった後からあまり大学に行かなくなった。思い描いていたものとのギャップが大学から足を遠ざけていた。近鉄奈良線に乗って難波で降りて単館系映画館でインディーズな映画を観て、アメリカ村にある甲賀流のたこ焼きを食べて家に帰るということが多くなった。小学生の頃からドラマを見るのが好きになって、将来の夢は脚本家になることだった。大阪に行っても脚本家にはいつかなれるだろうと思っていたけど、大阪で生活を始めても脚本を書いたこともなく、勉強も始めていなかった。次第に僕の中で大阪は合わないから東京に行くという思考になっていた。東京ならシナリオを教えてくれるところもあるし、チャンスは多いだろうと考えた。大阪からは脱出したいという気持ちになっていたから、大学生をしながら、あるいはやめても留まってシナリオを勉強するという選択肢はまったく浮かばなかった。
大学一年の冬休みに実家に帰って退学届を出してきたことを伝えた。家族は勝手なことをしたことを当然怒ったが、僕が思い込んだら行動してしまう人間だということは知っていた。その年の春先から東京に行こうと準備をしたが諸事情で叶わず、春からセブンイレブンの弁当工場で上京資金と映画の専門学校に入るための資金を貯めることにした。
アメリカのニューヨークで起きた9.11の旅客機がツインタワーに突っ込んでいく光景を弁当工場の食堂で見た。何も現実感がなかった。食堂には作りすぎた弁当の余りなどがあってそれが昼ごはんになっていた。大抵はチャーハンの残りにカレーをかけて食べていた。味はもう慣れてしまって何も感じないようになっていた。ただ、東京へ行くというモチベーションだけで閉鎖的な環境でも耐えることができた。
二〇〇二年の二月には映画専門学校の入学手続きを終えて、明大前にある学校に通える調布市の京王線柴崎駅近くのアパートに引っ越しをした。二回目の一人暮らしだった。学校が始まるのは四月からだったので、とりあえず学校が始まってからも続けられるバイトを探し始めた。
アパートから徒歩五分ほどのところに大きなゲームセンターがあった。ナムコワンダーシティプラボ調布店というそのお店の一階はUFOキャッチャーが主体で景品が取れるゲーム筐体が、二階は『バーチャファイター』などの格ゲーの筐体や麻雀ゲームなど対戦系の筐体がたくさん置かれていた。面接に行った時に二階に続く階段にいた制服を着た女性スタッフの人に「今日面接なんですけど、事務所はどこですか」と聞いた。そのスタッフがノンだった。
バイトが決まってからノンと話すと彼女は僕が通うことになっていた映画学校の先輩だということがわかった。通うことになったデジタル映画科は二年生まであって、秋田の高校を卒業後に上京して現役で入学した彼女は二年を無駄にした僕の一つ先輩だった。一九八二年三月生まれの僕は同年八月生まれの彼女とは留年などしない限りは学年では一つ上だが、二年のロスによって、年齢は一つ下だけど学年は一つ上という関係性になっていた。二年生になる彼女はTA(ティーチャー・アシスタント)ということを授業とは別にやることになっていたらしく、しかも僕のクラスの担当だった。そのおかげで僕は入学前に自分のクラスを知っていたし、先輩であるノンにタメ口を初日から聞いているという他の生徒からすれば生意気な謎の存在になってしまった。
専門学校もバイト先も同じだった僕らは、映画やドラマの話もするしバイト先の飲み会もよく行っていたので仲良くなるのは当たり前のことだった。ゼロ年代初頭はまだいろんなことがゆるくて、そもそもまだ二十歳になっていなかったノンはタバコも普通に吸っていたし、酒も当たり前に飲んでいた。僕は上京後にすぐに二十歳になったが、お酒は強くなくてバイトの飲み会に行っては吐きまくっていた。彼女は実家にいる時からご両親と一緒に飲んでいたらしく、酒はその頃から強かった。酔い潰れた僕を彼女たちバイト仲間に担がれるようにアパートに送ってもらうことが何度もあった。
専門学校卒業後はしばらくTAとバイトをしていた彼女は、調布から初台駅近くに引越して派遣の仕事を始めた。僕は卒業後はフリーターをしながら表参道にあるシナリオセンターに通ったりしていた。ゲーセンのバイトの人たちは同世代が多く、明治大学に通っている生徒も多かった。彼らが卒業して就職するまでその関係は続いていた。就職で地元に帰ったりする人もいたりして、プラボ調布店のバイト友だちは次第に馬の合う人たちだけの少人数の集まりに移行していった。
僕とノンと少し年上の演劇をやっていた杉尾さん(僕らはおすぎと呼んでいた)ともう一人ノンと同学年でファッション関係の仕事に就いた男の子の四人はゲーセンのバイトをやめて、それぞれ引っ越しをしても年に一回か二回は集まって近況報告がてら飲んでいた。もう一人の男性である彼は仕事の関係で神奈川県に引っ越したこともあって、次第に疎遠になってしまって、今ではもうやりとりをすることもなくなってしまった。おすぎは付き合っていた彼氏さんと結婚したが、旦那さんが家族で焼肉屋を経営しているのでその手伝いをするようになって、のちに結婚をした。何度かノンと東中野にあるお店に食べに行ったりしていた。
東京に上京したのが二〇〇二年だった。一番最初と言っていい頃に出会って未だに付き合いがあるのがノンだった。二十二年も友だちだった人が急に亡くなってしまった。そのことはすぐには受け入れることはできなかった。何か、僕の中の東京の一部が崩れ落ちたような、僕の東京の日々や時間が、損なわれた。永遠に失われてしまったような感覚に陥った。
リーマンショックが起きた頃に派遣で働いていたノンはその仕事ぶりを見込まれて当時でも珍しく、アメリカに本社がある大手のIT関連の会社に正社員として就職した。そして、初台から会社が近い、隅田川を越えた墨田区方面に引っ越しをした。僕は世田谷区の三軒茶屋付近に住んでいたから遠くに行ってしまったように思えた。そこから少し疎遠になった。東日本大震災が起きて、僕らはそれぞれのことで精一杯だったし、僕はフリーターをしながらも少しずつライターの仕事を始めたりしていた。新しい環境に馴染もうとしていた時期だった。
二〇一五年に僕はライター仕事関係で知り合った立川吉笑さんという落語家さんがやっている落語会を観に行こうとノンを久しぶりに誘った。彼女はお母さんと歌舞伎を観に行ったということを確かフェイスブックに書いていたから、古典系も興味あるだろうなと思った。
吉笑さんは元々お笑い芸人でネタも落語なのにコントぽさもあった。メジャーリーグでも活躍したイチロー選手や一流のアスリートは「ゾーン」と呼ばれる状態に入るという話があるが、それを江戸時代の商家の番頭さんが入ってしまうために、主人公の使用人がいかにその「ぞおん」に番頭さんを入らせないようにするかという内容の落語がおもしろくて一部では評判になっていた。ノンは出会った時からラーメンズとバナナマンのコントがおもしろいと彼女にしては珍しく熱っぽく語っていて、彼らの単独ライブにも足を運ぶほどのファンだった。誘う前に一度その落語を見ていた僕はきっとラーメンズやバナナマン好きならこの新しい落語はきっと気にいるだろうなと思ったのだった。
高円寺の区民会館の一室をレンタルした会場でお客さんは三十人もいない部屋でその落語会が開催された。彼女も楽しんでくれて、また落語やお笑いのライブを観に行こうという話を帰りに飲んでいる時に話をした。立川吉笑さんは当時期待される二ツ目で、二〇二五年には真打ち昇進が決定している。
そんな風にまた会う機会が徐々に増えていった。二〇一八年九月にはお子さんを出産したおすぎに会いに二人で中野に会いにいったこともあった。お子さんはすでに二歳ぐらいになっていたが、お店があったりと子育てに忙しかったおすぎと会うタイミングが中々なくて、その日まで僕たちはお子さんに会うことができていなかった。
おすぎも僕たちが二十歳の頃から知り合いで未だに連絡を取る数少ないバイト仲間だが、その人が子どもを産んでお母さんになっているということが、なんだかとても不思議だった。その表情が昔とは違って柔らかくて温かみがあった。演劇をやっている時はよく怒っていた。舞台のことやバイト先の人間関係とか諸々に、僕らはその愚痴を聞いていたから、違う世界線にきてしまったみたいだった。だけど、この光景が僕は本当にうれしかった。
おすぎ親子とお茶をしてから、夕方から新宿ピカデリーで『きみの鳥はうたえる』という芥川賞候補に何度かなったけど取ることはできずに自殺した佐藤泰志の小説を映画化した作品を二人で観た。元々おすぎとの約束が決まった後に、初日に出演者と監督の舞台挨拶付きの上映があるから、暇ならと誘っていた。映画に関してはそこまで楽しんでいなかったノンと帰りに居酒屋で飲んだ。
映画の話から英語の話になった。彼女の働いている会社は本社がアメリカにあって、将来的にはアメリカに住んでみたいという希望を僕に話してくれた。
「私は生きる安心が欲しいだけで、働いてるかもね」と言っていた。彼女にしては珍しく未来について話してくれた。子どもも産みたいと思わないし、結婚もたぶんしないと思う。でも、それだと申し訳ないから養子をもらって育てるみたいなことはしたいかも、とも彼女は言った。当時の彼女がちょっと複雑な恋愛をしていることも知っていたから、あまり結婚とか子どもということを自分のこととして考えにくかったのかもしれない。僕には一緒に英語を勉強しようと言い出したが、結局二人とも真面目に勉強しなかった。
お互いにこのまま結婚もせずにパートナーもいなかったら五十か六十歳ぐらいになったら籍を入れて結婚するのもいいかもね、と彼女は言った。二人とも両親はそれぞれ健在だけど、このまま行くと彼らを看取ったり、実家に残された家などの問題が出てくる。恋愛感情はないけど、一緒にいて心地いいし趣味の話もできるし信頼もしている。それに老後に一人は寂しいよ、とも彼女は言った。今思えば、友情婚みたいなものなのだけど、僕もそれはいい提案だなと思って、いいよと伝えた。
「私を武道館に連れて行って、帰りもほとんど家に一直線で帰れるところまで送って」
ノンが亡くなったというメッセージに僕が返信をして、すぐに彼女の携帯番号に電話をした。電話に出たお母さんは亡くなるまでの詳細を話してくれて、お願いがあると断ってからそう言った。最後にノンに会った日に喫煙所で、バナナマンの武道館ライブが二日とも取れてお母さんと一緒に行くのが一番いま楽しみと話したのを思い出した。
正確に言えば、バナナマンの設楽さんが「おーちゃん」に、日村さんが「ヒーとん」というキャラクターを演じるフォークデュオ「赤えんぴつ」の武道館ライブだった。バナナマンはコロナパンデミック中には開催できなかったが毎年夏ぐらいに単独ライブを行っている。その中で彼らが「赤えんぴつ」に扮して歌うというコントがある。それも毎回新曲をやっていて三十曲近くあるため、今回はコントを飛び出して武道館でライブを行うことになっていた。僕は一度誘われたが、彼らの曲を知らなかったので、断っていた。ノンはお母さんにもバナナマンのライブDVDを見せたりしていて親子でファンだったので二日間申し込んでいて、両日ともチケットが取れたと喜んでいた。
コロナパンデミックがおさまってきてから、バナナマンの単独ライブは復活した。しかし、いつも彼らが単独ライブを行っている俳優座は元々座席数が少なく、ノンはコロナ前からチケットが取れなくて生で見ることは叶わなくなっていた。それなのに赤えんぴつの武道館ライブは取れた。しかも追加公演も決まってそちらも取れた。何年間もライブで観ることができなかった設楽さんや日村さんを観られることを興奮しながらうれしそうに話していた。
電話でお母さんは「娘がたのしみにしていたライブだけは亡くなったけど絶対に行きたい」と言った。でも、普段東京に遊びにきてもチケットの手配だけでなく、その場所まではノンに連れていってもらっていたから心許ないし、そもそも東京の地理がわからない。だから、二日ある両日どちらともそれぞれ娘と仲の良かった人に頼んで、武道館まで連れていってもらうことにしました、と言われた。二月九日の初日はノンの会社の後輩で仲良かった女の子に頼んだので、二日目の二月十日は「イカリ」に連れてもらいたいとお願いされた。
僕は全然知らなかったのだけど、ノンは十年ほど前にお兄さんが亡くなったこともあってか、元々仲が良かったのかわからないけど、ご両親とはいい関係性だった。パパやママはよく東京に遊びに来るよ、と言っているのも何度も聞いていた。実際に東京でのことをお母さんとも話をたくさんしていて、お笑いライブや舞台を一緒に観に行っている僕のことも話していた。彼女はずっと僕の苗字から専門学校とバイト時代から「イカリ」と呼んでいて、お母さんたちもその呼称で僕を認識していたみたいだった。
我が家のことで考えると、高校時代ぐらいまでは友だちのことを話したりしていたから、両親も会ったことなくても名前ぐらいは認識していたが、上京後に友だちのことを話したりしたことはないから、僕の両親は東京での僕の友だちや知り合いの名前を誰一人知らない。彼女のお母さんはフランクな人だから、余計に「イカリ」と言いやすかったのだと実際に会った時にわかった。
ノンはお母さんのことを名前から「みーちゃん」と呼んでいて、お母さんと会った時も「私のことはみーちゃん」と呼んでと言われた。だけど、ちょっと僕としてはいきなりそう呼ぶのは恥ずかしいというか難しく、でも「お母さん」と呼ぶのもなんか違うよなって思いながら一緒に時間を過ごすことになった。
前々日からどうしようかと考えていた。十五時には墨田区蔵前に行くことは決まっていたが、電車に行こうかどうか。歩いて行くなら三時間半と地図アプリでは表示された。そのぐらいは歩けなくはないが、そのあとに一番大事な予定があるということもあって体力使っても大丈夫かということだけが気にはなっていた。でも、我が家からノンのマンションまでは十五キロほど、そう考えれば雨も雪が降っていないし、気温が高くないのならほとんど問題はないように思えた。
今日は事前にプリントアウトしていたノンが写った写真を入れたアルバムを持って行くつもりだった。うちからノンの家まで一緒に歩いて、その距離を経たものをご両親に渡したかった。それは自己満足でしかないが、自己満足でいいだろうし、まだ生きている僕のこの肉体を使う、動いて歩いてその距離を圧倒的に感じること、距離を把握したいという気持ちがどんどん強くなっていた。
十一時に家を出ればよかった。午後二時半には最寄駅でおすぎと待ち合わせをしていた。だけど、初めての道は多少不安もあるし、余裕を持って行きたかったので十時半には家を出た。
赤坂見附までは馴染みのある青山通りこと国道246沿いをApple Musicで赤えんぴつの曲を聴きながら歩いた。途中で青山ブックセンター本店が入っている建物の一階のトイレを借りて自販機で少し高めのヤクルトを買って飲んだ。汗はそれなりに出てきて暑くなってきたので上着を脱いだら、すぐに汗が冷えて寒くなってきた。すぐに着直した。日陰にいくとどうしても上着はいるぐらいにはまだ寒かった。
ずっと大通りを皇居方面に向かって進んでいく。ノンとは去年、三回赤坂御所の反対側にあった草月ホールでお笑いライブを観ていた。七月は三四郎、九月はハナコ、十月は岡野陽一とそれぞれの単独ライブを、三四郎の単独ライブを観た後に青山一丁目駅にある銀座ライオンに行って三時間ぐらい飲んでたくさん話した。そこから草月ホールでライブを観たら銀座ライオンに行くのが僕らの定番になった。
「来年は相田くんの足のギプス外れてるかな。それも観たいね」と笑いながら、ノンはお酒を飲んでいた。毎年彼らは単独ライブをやっているみたいだから、二〇二四年も一緒に観に行くつもりだっただけど、それは叶わなかった。
草月ホールの前も通りたいと思ったのはそういうエピソードがあったからで、彼女の家まで行くルートは皇居の下側を通ろうと思っていた。夜は上側に位置する武道館に行くから。草月ホールを通り過ぎて、反対側に歩道橋を使って渡ってから豊川稲荷にお参りをした。参拝客はそこそこいたけど、並んでも順番はすぐに来たので滞在時間はそこまで長くかからなかった。
青山通りをまっすぐ進んで内堀通りから皇居のお堀沿いを南下していく。何十人もの皇居ランナーに抜かされていきながら桜田門のところから皇居外苑に入ってから神田方面へ向かった。
世田谷区の我が家からロラン・バルトの言うところの「東京の空虚な中心」である皇居の下側を、左寄りの半円を通ってスカイツリーがすぐの墨田区まで行くというのは僕にはそれなりに意味があった。
夜にノンのお母さんと一緒に行く武道館は、ノンとも一度だけ行ったことがあった。それは二〇二三年三月に行われた『東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない』というコントでも音楽ライブでも演劇でもない、でも、全部入っているというライブイベントだった。
東京03のコントライブも行きたいねって話をしていたし、Creepy Nutsのラジオも聴いていて、一度ライブも観てみたいと話していた僕らにはうってつけのライブだった。ノンがS席の注釈ありを先行で当ててくれたので観ることができた。注釈ありというのは「ここはちょっとばかり観にくいですよ」ということだった。
アリーナの真ん中にステージと花道があって、普通のライブだとステージになる場所に生演奏するジャズバンドがいるという形になっていた。僕らはステージの右横ぐらいの位置だったが、バンドの上の方に設置されていたどデカいスクリーンも観やすかったし、実際に出演者も顔の表情は微妙なところだったがかなり近く感じる場所だった。
東京03もCreepy Nutsも生ではじめて観た。R-指定のラップもすごいなって思ったし、もちろん全体的にはコントがあり、そこにラップやジャズの音楽が重なったりしていく。それぞれのコントが最終的にはつながっていることがわかったり、途中のコントが時間軸で考えると最後よりものちに起きた出来事だとわかるような構成になっており、最初の頃はバラバラだったピースが全部を観ると脳内で完成されるようなものとなっていた。
「FROLIC A HOLIC」の作・演出は三人目のバナナマンともいえる放送作家のオークラさんであり、東京03とも多くのコントライブを作ってきた人だからこその遊び心と違うジャンルの融合を目指したものとなっていた。最初から最後までずっと笑っていたので終わった頃には顎が痛いぐらいだった。観終わってから神保町まで出て、クラフトビールが多めなアイリッシュパブみたいな飲み屋で感想を言いながら僕たちは何杯もビールを飲んだ。
神田川を越える時の橋は見覚えのある浅草橋だった。反対側には神田川が隅田川に合流する地点があり、そこにあるのは柳橋でそれもこの浅草橋の場所から見えた。
二〇二一年の東京オリンピックが終わった翌年の二〇二二年まで何年も続けていた元旦散歩。それは井の頭公園の神田川の源流から川沿いを歩いていき、柳橋の先で隅田川に合流してからは隅田川沿いに歩いていって、月島の先の晴海埠頭まで行くという古川日出男著『サマーバケーションEP』の舞台を、物語をトレースするというものだった。その時に何度も通っていたのが浅草橋だった。そう考えると友だちの家はそこまで遠くない場所だったのが体感としてわかった。隅田川の向こう、墨田区はここからならさほど遠くはない。
「もともと人嫌いなのに、緊急事態が二〇二二年まで続くとかのニュースを見ると凹む」「トイレットペーパーとか、買えてるの?」などのメッセージが来たのはコロナパンデミック最中の頃、一緒に観に行くようになっていたライブや舞台は軒並み延期や中止になっていた時期だったと思う。彼女も仕事はリモートワークでやれているようだったが、ストレスは溜まっているのをメッセージのやりとりで感じることが何度かあった。
「引っ越したんだよ。前の家から近くて、あらゆる駅から十分以上かかるけど。最寄りは浅草線蔵前分なら十五分。大江戸線蔵前なら十一分。単純に前の家八年経って狭くなったし、嫌になった。我が家でご飯会か映画鑑賞でもしようよ、いつでも遊びに来ていいよ」
メッセージのやりとりも増えたし、今までほとんど電話もしなかったけど、通話で話をしたりもした。その頃は亡くなった有名な俳優さんが二人ぐらいいて、そのことについてもいろいろと話をしたりした。
二〇二一年十二月のある日、豊洲にあるチームラボプラネッツTOKYO DMMに行こうよと誘われた。そこは超巨大な作品空間を中心とした作品によって構成されていて、「水に入るミュージアム」「超巨大なアートに、他者と共に、身体ごと圧倒的に没入し、一体となる」というコンセプトが掲げられていた。
豊洲駅で待ち合わせをして、館内に入るとまず靴を脱いで裸足になる。普段はソックスに靴を履いているので足の裏の感覚が刺激されるのが新鮮だったし、エリアごとで匂いが違ったりするのも感覚を意識させるものになっていた。エリアごとのテーマに身体を没入させていく、境界線がなくなっていくような感覚になっていった。不思議だけど、わりと身体を使うのでそれなりに自分の体という枠をより意識した部分もあった。すごくたのしかったし、境界線がなくなるのはおもしろくもあり、やはり怖さもあった。
太ももぐらいまである水面を歩いていく空間では、水面にデジタル照射された鯉が泳いでいた。人間が近づくと逃げるし、他の鯉との距離感などで影響を受けて泳ぐ。その鯉に僕たちの足が触れてしまうと鯉は花となって散っていく。水温は冷たすぎることもなく少しだけ温かかった。
一番の見所で二人ともずっとスマホで撮影していたのが、光の彫刻群とも言える空間だった。さまざまな色に光る点描が立体的に集合していく。光が下から上へと上っていく、すべてが明るくて色づいていた。壁は鏡張りみたいになっているのでその光を反射して、僕らもそこに映っている。それを二人揃ってスマホで写真を撮っていた。まだ、コロナパンデミックが終わったわけではなかったからマスクをしていた。今になって思えば、一緒にいろんなところに行ったけど、写真を撮ることも少なくて撮った写真はマスクをしているものが多い。
浅草橋から隅田川寄りの国道6号線を北上して蔵前駅を目指した。途中で6号線だと気づいた時はびっくりした。古川日出男著『ゼロエフ』での取材に同行した時に国道6号線を宮城県から福島県に入り、海沿いの津波被害を多く受けた地域を通って茨城県まで古川さんと音楽家の田中くんと僕の三人で歩ききった。確かに福島でも見た標識には日本橋まで何キロとあったはずで、あの道からここまで繋がっている。そう思うとなんだかいろんなものが無意識だったけど、繋がっていて僕の中で結ばれていく感覚があった。
二時前には蔵前駅の待ち合わせ出入り口に着いたので、今日お邪魔する予定の友だちの家の住所を頼りに一度確認しに行って駅前に戻ってきてから、隅田川テラスに降りてぶらぶらしていた。そこからスカイツリーは大きくはないけどはっきりと見えていた。
二〇二二年十月十六日に僕は初めて半蔵門線で押上駅まで乗った。ノンとおすぎと息子くんと僕の四人で久しぶりに会うことになって、話の流れからスカイツリーに行くことになった。日曜日だったからソラマチなど一帯の施設は家族連れが多くて混んでいたが、まだ海外旅行者の数もそこまで多くは感じなかった。展望台へのエスカレーターも十五分ぐらいで乗れたりとストレスはさほど感じなかった。隅田川や荒川や東京タワーや新宿方面も見えた。富士山は曇っていてほとんど見えなかった。
ご飯がてら入ったカフェでくつろいだ後に併設されているすみだ水族館にも足を運んだ。そこまで大きな水族館ではなかったけど、スカイツリーと一緒に見ると時間的にもちょうどいい感じに作られているんだろうなって感じだった。ペンギンの餌やりの時間帯だったので見物している人もたくさんいた。ここのペンギンは他の水族館で何度か見たフンボルトペンギンとかよりもひとまわり小さい感じだったが、サイトを見るとマゼランペンギンという種類らしかった。息子君は走り回るということはなかったけど、元気で躍動的に動いていた。来年小学生という年齢もあるのか、お母さんに甘えたいというのがわかるボディタッチとかそういう触れ合いを求めているように見えた。男の子はそういう感じで母親にできるだけ甘えたいのだろう。自分もあのぐらいの頃は母に甘えていたのだろうか。
大人三人がしっかり会話するという感じはなかったけど、休日に集まって一緒に時間を過ごせるというのは大事なことだし、付き合いが長いからこそ、こういう遊びのような集まりはできるだけ続けていきたかった。
久しぶりに多くの家族連れがいる空間に居たのもとても新鮮だった。子どもたちの騒ぐ声とかはうるさいとかは思えないし、それぞれの家族とか集団とかがたのしそうにしているといいことだなと微笑ましくなった。普段ひとりで行動しているからこそ、そう思えているだけで家族や集団で週末とかいつもいる人はそれで嫌なことも我慢していることもあるのだろうとは思うけれど。どちらもいい部分とわるい部分があるのは当然で、誰かと居る時間というのはとても大事なものだから、なんかやさしい気持ちになった。
待ち合わせしていたおすぎと合流してマンションを訪れた。ノンは二十七日の朝に亡くなって、民間の火葬場ですぐに火葬されてご両親と一緒に秋田の実家に戻っていた。彼女はスマホやカード類の暗証番号を書き残していたらしく、それでロックを解除したお母さんから僕に連絡が来たのが亡くなって四日後のことだった。
「赤えんぴつin武道館」に一緒にいきましょうと誘ってもらって、断る理由は何もなかった。その時点では蔵前駅近くにある橋で待ち合わせしてから、電車に乗って武道館まで一緒に行くということになっていた。だけど、結局のところ何度か遊びにおいでよと言われていたのに一度も行ったことのなかった彼女の家に、退去されて彼女の気配がなくなる前に見ておきたいと思った。武道館の前にお邪魔させてもらえませんかとお願いをして了承してもらった。だから、仕事で忙しい中、おすぎにも声をかけて一緒に行くことにした。
緊張しながらエントランスで部屋番号を押した。どうぞと言われて玄関のロックが空いて、僕らはノンの住んでいた部屋がある階へエレベーターで向かった。玄関が開くとハキハキとして元気な印象の明るいお母さんとどこかノンに似ている口数が少なそうで優しい雰囲気のお父さんに迎えてもらった。
ノンの喉仏の骨は両手に収まるガラスの蓋つきの瓶の中にあった。話を聞いたら、東北のほうと京都の一部では喉仏の骨だけはお墓などに入れずに仏壇などに置いていると教えてもらった。火葬されたあと喉仏の骨だけはご両親が彼女の部屋の片付けをするために上京した時に一緒に持ってきていて、リビングのテレビの台に置かれていた。お父さんとお母さんと僕らはノンの話をした。たぶん、泣くだろうなと思ったけど涙はあまり出なかったのは、お母さんが明るい人で「クヨクヨしない」と言われていたことも影響していた。お父さんは言葉数は多くはなかったけど、娘のことを本当に大事にしてきたのが伝わってくる話し方をされていた。お父さんから彼女の死亡届のコピーも見せてもらった。いろんな手続きで必要だから手元にあったそれには、連絡を最初にもらった時には脳梗塞で亡くなったと言われていたが死因はくも膜下出血とあった。
僕はお母さんから彼女のスマホを渡されて、今日のライブのチケットの分配をした。そういう手続きもペーパーレスになってきているけど、ある程度上の年齢の人には難しいし、スマホがないとどうにもならないというのは転売されないためのセキュリティというのは頭では理解できるけど、やっぱり人間にやさしくない。
彼女のマンションに僕らが滞在したのは三十分ほどだった。僕はお母さんを武道館に連れて行かないといけなかったから、最後に喉仏の骨に手を合わせてから、蓋をあけて彼女の白いその骨をもう一度しっかりと見た。隣で見ていたおすぎが耐えきれなくて号泣し始めて、僕も泣いてしまって、お父さんとお母さんも泣いた。お父さんは自宅に残って、三人で両国駅に歩いて向かった。友だちは大江戸線一本で帰れるので、九段下駅に行くのはこのルートにした。
武道館に着いてから、お母さんは物販のカセットテープとサイリウム(ペンライト)を買おうとしたが、タオル以外は全部売り切れていたので残っていたタオル二つ買って、一つを僕にくれた。お母さんとはおすぎと途中で別れてから電車に乗っている間も武道館での開場待ちをしている間もいろんな話をした。ほとんどがノンについてだった。
昨日お母さんと一緒に武道館に来たノンの同僚で後輩の女の子は、ノンも一緒にその家族と旅行に行くほど仲が良かったらしい。僕はその人のことはほとんど知らない。その後輩の人も僕のことを聞いているかもしれないが、なんとなく知っているぐらいだろう。そんな風に誰かを中心にした関係性というのは蜘蛛の巣みたいに広がっていて、交わらない部分がたくさんあって知らないことも多いものなのだろう。お母さんはノンが同僚の人たちにすごく可愛がってもらっていたのがよくわかったともおっしゃっていた。
仕事中に倒れて、というのもあるから会社の人や仕事関係の人には亡くなった事は当然伝わっていて会社の人たちだけではなく、仕事関連の人たちからもいろんな話を会社の人たちを通じて聞かせてもらったらしい。
スマホのロックが解除できてからもラインなどは娘と相手のプライバシーの問題だから見ていなくて、実際に彼女のスマホを見せてもらったら、ラインのアイコンに未読の数字がかなり残っていた。
僕は偶然というか、ライブに行く相手に選ばれたから連絡をもらって、亡くなったことを知った。もう一人の友だちもなんだかんだ付き合いは続いていて三人で春先に会おうと元旦にグループラインで連絡したばかりだった。おそらく彼女の知り合いのほとんどは亡くなったことを知らない。知りようがない。
上京してからすぐ知り合いになっていて、ここまで二十二年と付き合いの長い友だちが亡くなったのは初めてのことだった。共通の知り合いもいないわけでもないけど、その人たちにわざわざ伝える理由も正直見つからなかった。もう付き合いはないのだからこちらから伝えるのも違う気がした。
初日は赤えんぴつのソロライブだったが、二日目はゲストにchelmico、乃木坂46、三浦大知、トータス松本と盛りだくさんで趣向がちょっと違うものだった。二日ともアリーナ席らしく、僕が行った日は五列目50番代というかなりステージ近くのいい場所だった。
アリーナの真ん中には円状の小さなステージもあり、オープニングだったり、時折赤えんぴつの二人はそこでも演奏をして歌った。その時は自分たちの席よりも後ろにそのステージはあったので少し見えにくい場所ではあったが、前方には大きなスクリーンが三つあったりしたので表情とかはそこで観ることができた。
ライブに関して僕が少し危惧していたことがあった。この日のために赤えんぴつの曲を繰り返して聴いていたが、歌詞の内容的に人が亡くなっていたり、いなくなってしまう内容のものがちょこちょこあって、この状況でお母さんは耐えれるかなと不安になっていた。
ゲストの人たちと赤えんぴつが一緒に曲を歌ったり、トークをしたりするのは楽しかったけど、後半の方でステージにいた全員がはけたあとに中央の巨大なスクリーンにある映像が流れた。
中村倫也演じるカフェのマスター、黒木華演じるカフェのバイト、そのバイトに恋をしたいつもナポリタンをいつも頼む客のドラマ風な映像が映し出された。お母さんは昨日も観ているから、映像が映ってすぐにこれは放送作家の永井ふわふわさんの話なんだよと教えてくれた。彼の実話であり、今の奥さん(バイトの女性)と結婚したエピソードを曲にした『よしこちゃん』に繋がるドラマだったようだが、この日はすでにその曲は披露されていた。だから、お母さんも途中から「昨日と違うわ」と小さく言っていた。
若い二人が店内からいなくなったカフェでマスターがアルバムを見ている悲しげな表情、帰り道の路上で演奏している赤えんぴつに彼が一曲やってくれないかなという入り方で曲の演奏が始まるという演出になっていた。
正直ヤバいと思った。赤えんぴつの知識がほぼなくても、この一週間で聴いていた感じではこの流れでいけそうな曲は『それを胸に』というものだけだった。この曲は幼稚園から一緒だった男の子と女の子、やがて二人は高校生になって付き合いだして大学を卒業して結婚する。だけど、妻はある日交通事故で突如亡くなってしまうという内容だった。どう考えてもこの曲は大事な人を亡くしたばかりの人には刺さりまくってしまう。僕ですらそう思うのだから、お母さんにはどんなに響いてしまうだろうか。案の定、そうなってお母さんは泣いていたし、僕は歌詞もだけどそのお母さんを見て耐えきれずに泣いてしまった。基本的にはずっと悲しみよりも楽しいと思える素晴らしいライブだったけど、この曲だけはどうしても僕らは耐えきれなかった。
アンコールはゲスト全員と赤えんぴつで『自転車』という曲を歌い、最後はステージから客席に向かってハート型のメッセージの書かれたものが飛行機のように飛ぶながら舞い降りてきて、金と赤のキラキラしたテープが飛んできた。昨日もいくつかお母さんはゲットしていたみたいだけど、今日の方がステージには近いからたくさん取れたみたいでとても喜んでいた。
武道館でのライブが終わってから、僕はお母さんを半蔵門線押上駅まで送るために一緒に帰り道とは真逆の電車に乗った。最後に上から舞い飛んできたハート型の小さな紙吹雪はお母さんが火葬される前に少しだけ切っていたノンの髪の毛を入れたパックに一緒に入れていた。そうやって彼女の一部も武道館にお母さんは連れてきていたから、電車の中で見せてもらった。
小さなパックに入っている髪の毛を僕は触った。喉仏の骨を触った時みたいに実感がうまく沸かなかった。それは骨であり髪の毛であり、友だちだった彼女の、ノンの一部だったという認識が僕の中であまりうまく像を結べなかった。
去年三月には「FROLIC A HOLIC」を一緒に武道館に観に来ていた。それから一年も経たないのに初対面のお母さんとなんで僕が彼女の代わりにバナナマンを観に来てんだよと思った。あんなに楽しみにしてたのに、なんでだよって。だけど、それが無理だから僕が代わりに行くことになった。こういうイベントはある種の儀式みたいなもので、区切りにもなりやすい。そう考えたら、一緒にお母さんとライブを観せてもらえたのは僕にとってありがたいことだった。
押上駅に着いてロータリーに向かっていると半分のスカイツリーが紫色に光って夜空に映えていた。駅前のロータリーに停まっていたタクシーに無事にみーちゃんは乗り込んで僕に手を振る。タクシーが見えなくなるまで見送ってから、僕は来た道を戻って改札を抜ける。家の最寄り駅までは半蔵門線に乗っていれば渋谷で田園都市線に直結するから一本だった。やっぱり彼女が住んでいた蔵前まではかなり近い。遊びにおいでよと言われて一度も行かないまま、亡くなってから今日初めてその部屋を訪れた。家主はいない空間で彼女のお父さんとお母さんが退去の準備をしていた。
彼女の白い喉仏は彼女じゃないみたいで、部屋に残っている気配の方が濃厚だった。だけど、それも彼女と共に暮らしてきた物がなくなっていき、新しい住人がやってくると消え去ってしまうのだろう。
お母さんと話している時に、ノンにとっては母方のおじいちゃんに当たる人が浅草出身の人だったらしく、お母さんもあまりおじいちゃんの記憶はないとは言われていたけど、そのことを小さい頃に聞いていたから浅草が近い蔵前に引っ越したんじゃないかなって。そっか、それで蔵前に住んでいたんだね。電車が動き出してから僕はスマホを取り出してSpotifyのアプリを起動する。ノンが亡くなってから何度も聴くようになった曲を再生する。