
支え合いの中で
子供が小さい時に延々と
階段を登ったり降りたりを繰り返していたのを
思い出しました。
転落しないように気をつけるのと同時に
周りの交通の邪魔にならないかと
気を配りながら過ごしていました。
当事者として当たり前に
生きていたけど
俯瞰で見ることで周りで色んな人が
支えていてくれていることに気づきました。
子供を支えることに集中していたから
見えなかったことがあります。
今は見えている気がします。
今を捉える
目の前にある状況を真剣に捉えると
周りが見えにくくなりますよね。
でも意外と集中してみていることは短いと感じます。
最初の写真で感じたことは
こういう状況にならないと
僕は目の前の状況に集中できないんです。
見るという行動だけでなく
音や風の動き
パートナーの気持ちや
子供の進みたい方向に同時に
注意が向いています。
普段は集中していない
今を捉えるのがすごく苦手です。
色んなことを断片的にみながら
なんとなく浅く広く捉えてしまいます。
瞬間的な判断の繰り返しなので
あまり覚えていないことが多いです。
目には映っているけど理解していないことが多いです。
全身で判断している
僕は目の前にあることに
集中しにくいのは
見ることよりも気配と音に
ひきづられることが多いからだと感じています。
正確な言葉を聞き取ってはいませんが
環境音がすごく気になるんです。
空気感を感じる感じです。
目の前の入力と音の入力が別のことだと
音が優先的に入力されている気がします。
あなたはどう感じますか?
人によってこの感覚は違うんです。
全身で色んな情報を判断しているはずですが
主軸になる情報がみんな得意な入力方法に
差があります。
判断に対しての行動
同じ環境にいながら
取り入れられている情報は
個人差があります。
だから同じ内容で情報が受けたとしても
理解できている度合いが違うことも
多いんです。
だからこそ判断に対しての行動が違っても
一呼吸おいて何をどのように理解したのかを
推測する必要があるんです。
僕の判断が正しいのか?
相手の判断が正しいのか?
そもそも正しい判断が
なんなのかっていうことも
考えないといけません。
支え合うこと
目の前の出来事に対して
社会的に正しいことはあると思うんです。
でもその場にいる人たちの中での
正しいことは違うこともありますよね。
だからこそ社会的な正解とずれがあるのならば
支え合いながらズレとのギャップを
埋める必要があります。
常識に囚われずにその場の人たちが
幸せになれる状況を作りたいですね。