見出し画像

私と麻雀で繋がった絆

みなさんはじめまして。
麻雀覚えて30年オーバー(大げさ)なのにヘタレなままのMANAMN(まなみん)といいます。
このお盆に機に、自分の麻雀歴を備忘録代わりに残しておく事にしました。

リアル牌を持つまで

小学〜中学時代

小学生低学年の頃にファミコンを親が買ってくれた。F1レースとあと1つのソフト。
現在も続く私のゲーム歴の始まりである。
しばらくすると父の買ってきた4人打ち麻雀でひたすらドンジャラみたいな麻雀をやり、和了ったつもりが『役がありません』とコンピュータに怒られ、平和をピンフを読めずに『へいわって何?』と訊くと『ピンフた!』と父から怒られ、盆正月の夜には親戚のおじさんが集まってジャラジャラやっている音を聞くだけ。
麻雀をやってない昼間はいとこと牌を使って謎のおままごとをやって(1pはフライパンやらお皿だった)気付けば牌がどこかに行って数が減ってしまった。

高校から社会人へ

中学まではごく真面目で内申点もまあまあ上だった(と思う)私は、高校で親から反対され希望していた学校に行けずグレて不真面目な生徒になっていた。
部活で先輩が引退して部長となった私は部室に隠れて授業をサボるようになり、放課後はゲーセンに制服で毎日のように通い、ファイナルロマンスRで1コイン投入して配牌が開いた刹那『りな、和了りました〜』と天保で50円を秒で溶かされ、ホットギミックでは女の子の服をひっぺがす為にボタンをひたすら連打。
クソゲーと言われたけど曲が好きだったシューティングゲームオペレーションラグナロクではラスボスにまで辿り着くも1コインクリアが出来ず、現在も続編の出ているドライブゲーム湾岸ミッドナイトマキシマムチューンでは県内で一番に1000撃墜するも県外に行くと井の中の蛙でボコボコにされ、今もやっている音楽ゲームbeatmaniaⅡDXでは現在も七段を越せない、何をやっても中の下。
麻雀ゲームもご多分に漏れずこのパターンだった。
稼働してすぐに飛びついたMFCでは朱雀で早鳴きかつ高打点を狙って打っていたが黄龍になってすぐに行き詰まった。
MJも1枚目のカードを失くして新カードでやり直し、一瞬半荘十段に触れたが程なく転落‥。
どっちも降格戦が怖くて一度降格すると嫌になりその内どっちも触れなくなった。

ダメでもダメでも挑み続ける、その回数が上級者に比べて圧倒的に少ない。
この胆力の無さが何をやっても上達しない秘訣であろう。

職場でリアル牌デビュー

雀卓のある会社

一つ前の会社では何故か休憩室に手積みの雀卓が2セットあり、昼休みは1セットが常時稼働していた。
私が入社した頃には既に2卓立つ人数には満たなくなっていて、もう一台は埃を被っていた。
そこでは上司たちが早々と昼食を済ませ、ピンツモ無し、符計算は無しで飜数のみ、フリテンリーチ無しと昼休みの残り時間で半荘ぶん回す為の特殊かつ超高速麻雀をやっていた。
入社時してすぐは『良いな〜打ちたいな〜』と思いつつも食堂のテーブルから遠目で見るだけ、半年経った頃には入れてもらえるはずも無いのに卓の後ろで見るようになった。
そんな私にメンツから漏れて抜け番になっている上司から卓球しようと誘われ、卓球をやる事もあった。
卓球台も食堂の空きスペースにほぼ常設だった。
そんな感じで少しずつ上司に顔を売り(?!)誰かに途中で電話が掛かってきたり休みで抜け席が出来ると代走のお声掛けしてもらえるようになった。
いつしか定年退職などでメンツは減り、私はレギュラーメンバーになっていた。
時に弁当をまだ食べている途中なのに『メシはいいから早く来い』と促されて食べながら打ったり、稼業開始直前まで打たされ昼休みが終わるチャイムが鳴りながら現場で駆け込む姿を一緒に働いていたおばちゃんパートに白い目で見られながらも(でも上司命令でギリギリまで付き合わされているのを知っている為直接は言われず)出勤日はほぼ毎日打っていた。

新しく福岡から異動してきた人が私のタイプで、転勤してきてすぐは入社したての私のように後ろから眺めていたが程なくしてメンツに加わる。
しかし定年退職などでメンバーがギリギリの人数になり打てない日もボチボチ出てきた。
遂にはメンバーを保つ致命的なラストピースが欠けてしまった。

雀荘で徹マン

『またこのメンツで麻雀を打ちたいですね』と言うと雀荘でセット打ちしようという話になり、会社麻雀ではほぼノーレートな点0.1の月末清算だった為レート上げて長い時間打ちたいと話が進み、それから仕事終わりにメンバーの知る近場の雀荘で数ヶ月に一度徹マンするようになる。
既に定年退職した元上司、八代から毎日JRで通勤する定年間近の社員、単身赴任で休日にはJRで自宅のある福岡に帰る上司、私。
思えば、課長副長と肩を並べて歳の離れたパートの私が打ってる姿は側から見たら異様な光景だが、終電が無くなると2人帰る手段が無くなる為必然と徹マンになるのだ。
そこで最初は出前を取りつつ仕事の話で盛り上がるも、24時頃から口数が減り28時頃にはポンチーロン位しか言わなくなり頭はある種のHEAVEN状態、財布はHELL状態、毎回ボコられた。

そこでの印象的なエピソードを2つ。
当時は第六感が良い意味でも悪い意味でも冴えていて、そもそも牌の出入りとか捨て牌とかをよく考えず直感に任せて打っていた。(今考えてみればそりゃボコられて当然だ)

とある局、私はテンパイを入れていて下家には定年退職した元上司。在任中からとある神社で神主もされていた。
自分がツモ切った後そんな下家の神主さんが手を牌山に伸ばした瞬間、ゾクっと背筋が冷え『やられた』と感じた。まだ何も見えていないのに、だ。
直後当然のようにツモ宣言、跳満を和了られた。
他の2人はその瞬間どう感じたのか知る由もないが、後にも先にもこんな体験をしたのはこの時と後述の伽での2回だけだ。

もう一つは、タイプの上司と同じ物を出前でカツ丼取ったら油が古かったのか全身に蕁麻疹が出来て痒くて堪らず、勝つならぬカツを拒絶。ただでさえ少ない集中力が空っきしになりいつも以上にボコられた苦い思い出だ。

歳をとった今となっては、60代、定年間近な50代2人が仕事終わりに徹マン打ってるって上司たちどんな体力してたんだ?と驚く。
タイプだった上司が異動で元の支店に戻った為完全に解散、リアル牌で打つ場を失った。
今の実力で打ってみたらどうなのか?少しは渡り合える腕になったのか?と試してみたいと思わなくはないが最早それは叶わぬ夢だろう。

家族麻雀①

ある日実家の大掃除をしていたら押し入れの奥から無くなっていた牌がみつかり、いい大人になっていたし家族みんなでやってみようかという話になった。

昔から時々雀荘や知り合いの家で賭け麻雀をやっていた父、前述のようなリアル牌経験がそれなりにある私、ゲームで齧った程度の弟、ルールも分からずチートイしか出来ない所謂数合わせに付き合わされた母。
符計算なんて難しいものはやらない。勝ったら少しお小遣いが貰える程度
まあ結果はほぼ経験値通りになる事が多かったけど家族みんなで楽しかった事は覚えている。

健やか麻雀クラブ『伽』

『下手だけど人と麻雀は打ちたい』
麻雀に飢えながらも見知らぬ人とレート有りはかっぱがれるだけだからとビビりつつ、勇気を出して0.5で数回打つもやっぱりボコボコにされ、やっぱりフリーは無理だと思っていた時にふと見上げた水道町交差点の角にあるコカコーラのネオンが眩しいビルのガラス面に貼られた店の名前が気になって仕方なかった。

初入店〜

熊本という地で健康麻雀(賭けない飲まない吸わない)且ついつでも対局出来るフリー雀荘。レート有りでボコボコにされたへたれな私にとっては天国のような環境だ。
それでも見知らぬ所に足を踏み入れるには勇気が必要だった。
イベント会場などでいきなり会った人とでも意気投合すればエンドレスに喋る私も、全く知らない閉鎖されたハコに行こうとすると脚がすくむのだ。
検索したホームページを見て『初心者歓迎、マスターが丁寧に教えます』とあり、符計算が全く出来ない私にも出来るかなと、勇気を出してエレベーターの無い古いビルの階段を3階まで上り扉を開けると、以前同卓していた上司たちとほと変わらないような歳の気のいいマスターと少しスンとしたママさんが迎え入れてくれた。
80過ぎたおじいちゃん(もあの階段を毎回元気に上り下りしてた!)から定年間近くらいから中年のおっちゃん、熊大の学生が卓を埋めていた。
チートイはニ飜でチートイドラドラは満貫、ピンツモドラドラが1000,2000だった特殊な環境に置かれ今まで『符計算なんてものは分からなくても打てるだろ』と思っていた私は、手付きはそれなりに慣れていたものの最初の頃は卓に入っても緊張してまともに打てなかった。
トップになるとスタンプ3つ、2着で1個、役満で5か10個だったかな?ドボンで減って、30個貯まるとプレイ料金が3時間分無料になるシステムだった。
※個数に関しては記憶があやふやだが、1,2着と役満が増えてドボンで減り、満タンになると3時間無料になったのは間違いない
が、次の入店は月を跨いだ記憶がある。
知らない人と打つ興奮と相反する恐怖、まっさらな環境に慣れるのには時間が掛かった。

ようやく環境に慣れてくるもこの頃の私はスタッツが悪いのが続くとつい悪態つくひでー奴だったと思うけど、常連さんとも少しずつ打ち解けるようになり硬さも少しずつ抜けこんな私でも少しずつ受け入れてもらえ、1,2週間に1回くらい通うようになった。
時は経ち、勝っても負けても打ててる事が楽しいという地点にようやく着地出来るようになったが、そんな時ヤツはやってきた。

熊本地震

2016.4/14と16。2度の大きな揺れは環境を大きく変えてしまった。
幸いにも私は体も家もほぼ無傷で倒れた家具も無かったのだが、お店の入っていたビルは上の階のガラスが落ち、建物は程なくして【危険】と記された赤い紙が貼られた。
しかし、お店はそれでも割れたガラスを処理し空いた窓面をビニールで塞いで、程なく営業再開し常連さんは今までと変わらず来ていた。
中年過ぎのおじさんばかりであったが、彼らは達観していた。
『もし余震が来てここで死んだとしても後悔しない』同じ事を私から直接聞いたら旦那はきっと卒倒しただろうが、こんなメンツに平然と加わっていたあたりそれとなく『多分大丈夫だろ』という正常性バイアスが働いていたんだろう。
しばらくするとビルのオーナーが建て直しを決意、遂にテナント退去をする事となる。

移転

こうして下通から一歩入った移転先のビルの5階に移ったがエレベーター付きになったので店への移動は楽になった。
対局中はちょっと甘いものが欲しくなるよね〜と、いつもお店に行く前にセブンイレブンで個装されているチョコレートがいっぱい入った袋菓子買って卓に振る舞うのが定番になっていた。
そんな平穏は急に終わりを告げる。

マスター

いきなりのコレである。今日は店休日じゃないし、有料駐車場に停めないと行けない場所にそんな当たり前の事を確認せずに行くドジはしない。

休業のお知らせ
いきなりの知らせ

何事があったのか?常連さんに電話すると、まさかの真相だった。
マスターが急病で亡くなった、と。
ショックで言葉を失った。

訃報を知った時のツイート


お店はそもそも手伝ってくれる人はいたけどマスター夫婦でやっておられたし、ママさんは麻雀があまり好きではなくマスターの手伝いとして来てたからどうしてもメンツが足りない時に入る位で、本来好きなのは競馬だった。
そんなママさんが1人で切り盛りするのは無理があり閉店を考えた時、常連さんと話し合って営業日と時間を減らす事で何とか営業を続ける算段がついたようだ。
しばらくして営業が再開された時、ママさんには月並みの言葉しか並べられなかったのと同時に、そんな中でも営業再開してくれて嬉しいです。と感謝の気持ちを伝えた。
こんな中でも伽という場所が残った事が私はとにかく嬉しかった。

しかし営業時間が短くなった事でお客さんは必然的に少なくなる。
そこに追い打ちをかけたのがコロナだった。
所謂第一波の襲来前、全国へまだ未知の病気の蔓延が始まった頃だった。
ノーレートの健康麻雀でワイワイ喋りながらゆるりと楽しむ麻雀卓という狭い空間とあっては必然的に密になる。

閉店のお知らせ
閉店のお知らせ

寂しいけど正しい決断だ。
閉店日、フラワーアレンジメントを持ってお店に行った。ママさんは閉店まで最後の数日間、来店してくれた常連さんにちょっとした手土産を帰りに持たせてくれた。そんな伽閉店日、営業時間最後の卓で私は国士無双を和了った。

同卓者の許しを得て、崩す前に撮らせて貰いました

この場は無くなるけど、またどこかで集まりましょうと約束して解散した。常連さんの1人がまた集まれるようにと後日お店の雀卓を1台自宅に引き取った。そんな思いを持っていても、日に日にコロナの広まりが脅威になっていく。歳を召した人が多い中集まるのはリスクでしかなく、集まれるはずも無かった。減衰した際に数回は集まれたものの、気付けばもう何年も会っていない。コロナはこうした薄くともリアルで繋がっていた繋がりを引き裂いた罪な病気だ。かくして、リアル牌で打てる環境をまたしても失った。

家族麻雀②

時は2021年。父の病気が発覚してたったの3ヶ月で亡くなって早8年が経とうとしていた。私同様、家に籠るのが大の苦手な母は当時から寂しさを紛らわせようと何かの趣味をしようと考えていた。
すると『そういえばお父さんと家族で以前一緒に麻雀やっていたな〜』という事を思い出し、健康麻雀をやるようになる。
当時はチートイしか出来なかった母が今となっては符計算がバッチリ出来るようになっていた。正直、私よりも出来る。
そんな時、弟が人のつてで自動雀卓をタダで貰える事になったという知らせ。
来年の正月はみんなで麻雀しようかね?と母はウキウキとした顔で訊いてくる。
そして迎えた2022正月。
実家の仏間で食事会をした後、弟の嫁さんと甥っ子たちには麻雀は退屈だろうから帰ってもらって、
置き場が無く、外のガレージにカバーを被せたまま置きっぱなしになってた(!!)全自動麻雀卓を家の中に入れる必要があるが‥思いの外重くて大きい。今まで雀荘で見て触っていた台より確実にひと回りデカい。弟と旦那のメンズ2人に頑張って貰って何とか搬入に成功。
ずっと外に置いていた卓が起動するか非常に不安だったが電源を入れるとちゃんと動いているようだ。いざ牌を2セット中に入れ込むとエラーが出る。
1セットの1牌がどうにも見つからない。
欠品のある1セットは使えないので仕方なくこの日は局が終わった後牌を流し込み、セットされるのを待って牌山を立ち上げ1半荘の途中でタイムアップ。

お盆になると持ち主から1牌見つかったと連絡があり回収。晴れて普通の自動卓として稼働するようになった。
旦那は私との麻雀の相性が伽時代に同卓していた時からずっと最悪で『私とは同卓したくない』と以前私に公言していたが、申し訳ないけど黙って付き合って貰っていた。
今年の正月も一通り食事会が終わると1半荘打った。
そしてお盆。つい先日だ。
もはや恒例行事となった家族麻雀の為、嫁さんと甥っ子たちは帰ると思っていたが甥っ子から思わぬ発言があった。
『僕たちも麻雀を覚えたい』
は?私は思わず耳を疑った。彼らはまだ小学生だが、目をキラキラさせながら言ってくるのだ。弟と旦那が目配せして弟が
『よし分かった。今日は俺とおじさん(旦那)が1人ずつ付いて教えるから、実際やりながら覚えてみろ』
一度全員の手牌をオープンしてやってみる。
実際は他の人のは見えてないからね、と手牌を立てると『うおっ、難しい!』とまた興奮した返事。
そして役牌とタンヤオと混一色を始めに教えて、2ゲーム目からは本当に手牌を立てて打ち始める。
そして1局ごとに『麻雀面白ぇ!楽しい!』と興奮した声で話す。
説明しながらだから、どうしても打牌は遅くなる。
その中でも、利き手でツモって利き手で打て、今は役の種類もほとんど分からないだろうけどまず鳴くなら役を決めるような物を鳴け(つまり所謂役無しドンジャラをするな)という事を話した。
私も母も暗黙の了解でダマテンの手では和了らない。面前でテンパったら必ずリーチを打って和了るようにした。
普段やらないような打ち方をし、ご馳走を食べた後だからそれとなく眠気が襲ってきた。
そんな中、ふと視線を上げると掲げられた父の遺影が私たちを見守っていた。
甥っ子たちが自らやりたいと言い、楽しいと言った麻雀。時間は掛かったがきっちり1半荘打ちきった。
次は来年のお正月にやろうね、と約束した。
『今はYouTubeで見たりとか携帯のアプリで出来るから、それまでに(少しは)覚えてくるんだよ』

家に帰ると、2日連続で親戚周りをしてぐったりした私はぬるめのお風呂に浸かった。
お父さん、血は争えないね。
こうやって連綿と繋がっていくんだね。
と想いを馳せると勝手に涙が溢れてきた。嬉しくて嬉しくて堪らなかった。

Mリーグ

少し時は戻って2022年の春。ふと観たYouTubeでのMリーグ2021-22シーズンセミファイナル中継で、奇跡を起こす近藤誠一さんの麻雀を観て夢中になった。ファイナルで決めた倍満和了をリアルタイムで観て心から痺れた。フェニックスは残念ながら準優勝だったが、来季は優勝して欲しいと推しチームにする事を決めた。
そんな誠一さんの過去動画を観ている内に所属する最高位戦に興味を持つようになり、A1中心ではあるものの今ではライブ中継を観るようになった。
オフシーズンに行われたドラフト会議で、サクラナイツ加入の渋川難波(以後 渋)は解説にも頻出してたから知っていたが、パイレーツ加入の決まった鈴木優(以後 優さん)・仲林圭(以後 じゃが、2人は後にのちにUKコンビと呼ばれるようになる)は事前情報ゼロ。じゃがはドラフトで選ばれた時の動画と2022-23シーズン開始前に撮った日本プロ麻雀協会の動画で渋を弄り倒している所しか分からない。
渋は箱下47600点、じゃがは役満頭ハネを食らうという伝説を作ったが強さは感じた。
推しのフェニックスはレギュラーシーズンで敗退してしまった為、ポストシーズンはパイレーツをこっそり応援していた。ポストシーズンでは成績が振るわなかった剛さん、瑞原さんの代わりに登板回数の多かったUKコンビ。特に優さんは私好みのイケメンで、レギュラーシーズンの終わり頃からそれとなく応援するようになっていた。(この頃はまだ彼がとんでもない天然キャラなのを知らない)
その最終戦、優さんはセミファイナル最終戦敗退が決まったインタビューの待機椅子でうなだれた姿を見て、じゃがは試合後の配信で悔し涙を流した所を観てもらい泣きした。

オフシーズン。急にじゃががバイオ配信をすると言い出し、Twitterのタイムラインを席巻した。
私も怖い物は苦手で、バイオハザードは バすら触れたくない完全なるジャンル外のゲームだ。
しかし、あまりにもビビり絶叫する姿や巻き込まれた他のMリーガーたちを観ると何だかほっこりしてしまう。
まさかホラーゲームをこんな形で楽しく見れる日が来るなんて思いもしなかった。
※なお通常ペースの配信だとあっという間に3D酔いで撃沈する為、おしえてパイレーツ配信は途中で観るのを断念した。

その後、UKコンビの動画やタイムラインを見れば見る程彼らの魅力に取り憑かれていった。
来季こそはフェニックスに当然頑張って欲しいのだが、セミファイナルに行けないとチーム解散を余儀なくされるパイレーツとサクラナイツも頑張って欲しい。
特にパイレーツ。UKコンビをこれからももっと見たい!頑張って欲しいので来季はフェニックスとパイレーツの2チームをハコ推しする事に決めた。

最後に

私が麻雀を始めたキッカケは4人打ち麻雀というファミコンゲームである事は前述した通りだ。
同じ4人打ち麻雀をやって麻雀を覚えたという優さんと、高校の時めちゃくちゃ遊んだオペレーションラグナロクの作曲者である並木学さんの誕生日が同じ9月13日で、しかもそれが私のソウルメイトである事が分かった。
もはやこの出会いは偶然ではなく必然だったとさえ思える。
長い人生の中、何だかの繋がりがあって今ここに辿り着いているという事を改めて感じた今年のお盆であった。

ここまでの長文に付き合って頂き、ありがとうございました。
来季の春は笑顔で迎えられますように。


2023.8.16 MANAMN a.k.a 皐月真奈

いいなと思ったら応援しよう!