知性主義の危うさ

知性主義と絶対的信頼感から来る危うさ
フィンランドの友人たちの話を聞きながら、コロナでもwellbeingが高い素晴らしすぎるフィンランドを思った。なんなのだ、この安心感と淡々とした幸福感というか余裕は、一体どこから来るのか。
3年連続幸福世界一なんて持ち上げられているけれど、あまりにもそのイメージが強すぎてお利口で理想的な国というイメージのフィンランドのリアルはどうなのか?
アールト大学のエサ先生のところで研究しているフランク・マルテラは、フィンランド人は自分たちが幸福とは思っていないとずっと主張して調査し実証してきた人だ。彼の本が日本語になっていたので買ってみた。「世界一幸せなフィンランド人は幸福を追い求めない」という日本語タイトルはキャッチーだけど原題はwonderful life素晴らしい人生であって、フィンランド人は幸福ではなく、実存的意味を見いだしているという。帯には、「幸福なフィンランド人から生きる意味を学びたい」とコマーシャリズム丸出しになっているけど。フランクはどう思っているのか聞いてみたい。
私の印象は、幸福で実存的意味を見いだしているのであれば、あんなに自殺率が高くなることはないのではないか(この15年くらい激減していることは称賛に値するけれど、それでもなお日本の自殺率より高いという衝撃の事実!!)ということ。実は皆、意味が見出せなくて、だから必死で頑張っているフィンランド人という姿なのだ。
お利口なフィンランド人は、できる限りのwellbeingを追求して透明でオープンな素晴らしい政府を作り、腐敗しないようなシステムを維持してきている。福祉が行き届いた安心感の中で、自己実現を目指して自由に自分の人生を選択している、なんて素晴らしいんだ!それがない国にいると憧れと称賛しかないのだけれど。
政府に対する信頼も地に落ちた感のあるグダグダわけのわからない混沌とした日本にいて、不思議なことに、これもまたいいものではないかという直感的な思いが湧いてきた。それがどこからきているのか、正しい認識であるかどうか、フィンランド人へのインタビューを分析したいと進め始めたところである。
日本人のいい加減さというか、プリミティブな変な信念(いわゆる表面的な科学信仰とどっこいどっこいの危うさは似たようなものだろう)というか、訳わからない大自然に対する恐怖というか畏怖のような感情から来る一種の諦めというか明け渡しというか。これらは近代知性主義的見地から眺めると、愚かな原始的な態度ということになる。しかし、このどうしようもない、自然に翻弄されているように見える態度が、危機時代の生き残りという点でまさっているのかもしれないという思いがあるのだ。
今のこの世界的混乱は、言ってみれば人間中心の理性主義、全てを理解しコントロールしようとして崩壊しかかっているように私には見えるのだ。つまり、人間の傲というか。いろいろな脅威に挑戦して天候や遺伝子までコントロールして人間に都合がいい世界の構築を追求している。見えてくるのは、自然界や宇宙の流れに対して勝利を宣言して決して負けを認めたくない強い人間の姿だ。だから、これでもか、これでもかと自然界に対して科学技術と知性を駆使して対抗している。いつまで続くのか。どこまで疲弊すれば諦めがつくのか。
こういう観点から眺めると、あまりにも貧弱で信頼が置けないシステムの中に生きている我々日本人の方が、あっさり負けを認め、宇宙の理の中で流れていくのは得意なのではないかと判断するのだ。
お利口なフィンランドは素晴らしいシステムの中で安心しているので、うまくいかなかったら次はこれ、そして次の政策はこれだ、と次々にお利口な選択肢を開発してどんどん進んでいく、やり遂げるsisuで進むのだろう。その結果がどうなるのかは数十年後の分析で明らかになってくると思う。でも、負けを認めたくない人間中心の西洋文化の中では、大がかりなディフェンスメカニズム的な解釈が喜んで受け入れられるのだろうな〜という予想もついている。
天邪鬼な私は、いつの時代にも他の人が主張していることに対して、え?そうなの?という問題提起をするから嫌われている。日本人、このまんまでいいんだよという主張は猛反発を喰らうだろう。でも、もしかしたら、この話は、日本人が失ってしまった誇りを回復するのに一役買うのかもしれないと密かに思っているのだ。
もっと言えば、大好きなフィンランド人も、もともとそういう感性を持ち合わせている人たちだから、大自然に対する畏怖を思い出し、謙虚に宇宙の理に首を垂れる素朴な特質が蘇ってくるのではないか、それこそが、今よりもっと高い知性の働きではないかと思ったりもしている。

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