「愛なき森で叫べ」を見て。

わたしたちはみんな面白い人が好きだから、面白い人には好感を持ってしまう。

笑われるような言動をする、滑稽な人も好きでしょう。滑稽な人が目の前に現れると、微笑みながらも少し下に見て、警戒を緩めてしまう。

だけど悪い人はそんな人の心理を利用する。

だから私たちは警戒しなきゃいけない。ファニーなオブラートの裏に透けるものを見て、「怖い」と思ったら、叫んでいい。

『愛なき森で叫べ』を観て思ったのはそんなことでした。

(ちょっとだけネタバレがあります)

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『愛なき森で叫べ』と、村田のこと

『愛なき森で叫べ』は、Netflixで独占配信されている園子温監督の新作映画です。

園子温監督作品は数本観てますが、人間のさがのようなものを、滑稽なところもそうでないところも含め赤裸々に描くところ、赤裸々すぎて戯画っぽいところが好きです。

園監督の作品の中には『冷たい熱帯魚』など実際の殺人事件をモチーフにしたものもあり、『愛なき森で叫べ』もその系譜。北九州殺人事件をモチーフのひとつにしています。本人は手を下さず、マインドコントロールによって家族に殺し合いをさせたことで世間を震撼させた事件です。

『愛なき森で叫べ』にはこの事件の主犯格をモデルにした村田というキャラクターが登場するんですが、彼の振る舞いがまさに「滑稽」そのもの。

白いスーツでキザに現れる。歌手としての持ち歌もどう見ても変。人に無茶なコスプレを強いりながら自分もやる。その裏にある危うさも隠してはいないのだけれど、それは常に滑稽さにコーティングされていて、本気でバカなことをやっているように見えます。

彼のような人に対する反応の多くは、この三つだと思います。

・面白がり、好感を持つ。
・滑稽さを笑いつつ、安心感を得る。
・危険を察し、怯えたり、批判する。

「本気でバカやっているように見える」危険な人に対してのわたしたち

わたしたちは、尊敬であれ見下しであれ、面白がれる対象には好感を持ち、警戒を緩めてしまいます。

純粋に面白がる人や滑稽さを笑う人に対して、怯えたり批判する人は少数であり異端に見えると思います。でも、三者とも正直であるだけで反応に善悪はありません。

ですが、こういうとき生まれるのは少数である怯えたり批判する人を諌める動きです。そんな危険なものじゃない、真剣に捉えなくても、と。嫌な予感を覚えていても、周りが面白がっているから大丈夫と見ないふりをする人もいると思います。

面白いとか、滑稽であることは、批判や真剣な議論を遠ざけます。

もし普通に発言したら反発が起こるような主張や思想をコーティングするために、これ以上に適したものはありません。

村田の「映画の中では本物をとるべき(?)」という主張もそうで、警戒のない中受け入れられたあとは次第にエスカレートし、だから人を殴ってもいい、傷つけてもいい、殺してもいい、と地獄絵図になっていきます。一度受け入れてしまったものを途中で拒否するのはとても難しいことです。

村田が戦略的に滑稽な振る舞いをしていたのかはわかりませんが、都合の悪い意見はそらしつつ、人の心に侵略していくのにこれ以上の方法はないのでは、と思います。


面白く思えるもの、滑稽に見えるものの本質

なにが怖いかというと、この手のやり方は誰にでもできてしまうということ。

強烈なカリスマとになるのは難しくても、「面白がられる滑稽な人」にはなろうと思えば誰にでもなれてしまう。

だから、表面的なふるまいで本質を見落としていないか自問自答する。危険だと言う人がいたら「そうかもしれない」と耳を傾けてみること。あるいは議論することが、取り返しのつかない自体を避けるために必要なのではと思います。

村田みたいな存在は戯画的であっても戯画ではなく、いつ近づいてくるともしれない存在だから。

本当に危険なものって、滑稽なんじゃないかな。

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