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蘭学の終焉と福沢諭吉 豊前国中津藩:蘭学コトハジメ③

 鎖国の日本において、海外とのやり取りは中国とオランダだけ。オランダからの学問を蘭学といい、江戸時代後期まで蘭学は最先端科学だった。その蘭学を極めた中津藩の福沢諭吉は、最終的に蘭学と決別することになる。本記事では福沢諭吉について「歯科医療の歴史」を理解するために、必要最低限な情報に絞って紹介したい。(小野堅太郎)

 エルゼビア(Elsevier)という世界最大の科学系出版社がある。本拠地はオランダ。元々は、16世紀から17世紀にかけてオランダではエルゼビア家(House of Elsevier)が印刷業を営んでおり、一時期、オランダ・ライデン大学の専属出版を担い、数学系の本を出版していた(ガリレオの本を含む)。エルゼビア家外の経営者となり18世紀初頭まで存続して廃業します。そして1880年、このオランダで最も有名な古い出版社「エルゼビア家」の名を取って、現在の「エルゼビア社」が誕生します。このエピソードからも、オランダは16~18世紀は学問の中心であり、ライデン大学はヨーロッパ中から優れた学生を集めていました。

 17世紀の日本では江戸幕府が始まります。ヨーロッパではプロテスタントとカソリックの争いが続いています。プロテスタントに対抗する組織としてカソリック系にイエズス会が生まれ、ポルトガル王の依頼で海外でのキリスト教布教にフランシスコ・ザビエルが中心的に活動を行います。

 オランダは正式には「ネーデルランド(低地の意)」です。おそらくポルトガルで「ホラント」と呼ばれていたものが訛って「オランダ」になったと考えられています。この時期のオランダは、カソリック系のスペインと「80年戦争」をしている時ですので、カソリック系キリシタンによる島原の乱では、幕府側についたことが、鎖国後も幕府からの信用を得たと思われます。

 初めはイギリス(正確にはイングランド)もOKだったわけですが、オランダが東インド会社を襲撃したアンボイナ事件があり、イギリスはインド本土の貿易に集中するため日本から撤退します。後に、イギリスは日本との再貿易を求めますが、「オランダ風説書」から”イングランドにカソリック系王女が嫁いだ”との情報を得ていた幕府は、イギリス船の出島への入港を拒否します(リターン号事件:1673年)。そうして、オランダは日本との貿易をヨーロッパで独占することができたわけです。

 これまで蘭学コトハジメ①②で、豊前国中津藩関連の人たちにより蘭学が発展してきたという話をしました。1835年、大阪の中津藩蔵屋敷で福沢諭吉は生まれます。翌年、父が亡くなり、中津へ帰藩します。18歳まで中津で過ごし、19歳で長崎に遊学して蘭学を学び、翌年、兄のいる大阪へ行き、緒方洪庵の「適塾」に入ります。腸チフスになって中津に戻ったり、兄が死んで家督を継ぐようになったりと目まぐるしい中、適塾の塾頭になります。23歳のときに江戸の中津藩邸(築地鉄砲洲の中屋敷)に住み込んで蘭学を教えることになります。

 翌1859年、日米修好通商条約により開港した横浜に遊びに行ったわけです。ところがオランダ語は全く通じないことに気づきます。「当然、外国人はみんな文化度の高いオランダ語も話せるだろう!」と踏んでいたのに、だーれも話せなかったのです。19世紀、時代はオランダ語でもなく、ラテン語でもなく、英語になっていたのです!!鎖国おそるべしです!!

 当時、アメリカは二流国家です。現在のような超大国ではありません。ここら辺、トム・クルーズと渡辺謙出演の「ラストサムライ」が、冒頭、いい感じでアメリカを描いています。第一国は、イギリス(とロシア)です。当時、イギリス人は清国では、めちゃくちゃひどい支配をしていました。福沢諭吉はアメリカやヨーロッパを見て回りますが、世界はもう蘭学ではないことを目の当たりにしたはずです。

 1867年、王政復古の大号令、明治維新の始まりです。翌年(慶応4年・明治元年)、福沢諭吉は先の蘭学塾を「慶應義塾」とします。慶應は、昭和とか平成とか「年号」からきているわけです。その2年前、杉田玄白が「解体新書」を作製した時のエッセイ「和蘭事始」の写本が露店で発見されます。それを知った福沢諭吉は内容に感動し、「蘭学事始」と改題して1869年に出版します。これにより広く「解体新書」の作成秘話が知られるようになり、同じ中津藩の前野良沢の活躍が現代にも知られることになりました。学ぶこと、学問を推し進めること、が敷き詰まっています。その後の福沢諭吉の生涯に通ずるものがあります。

 さて、日本の歯科医学の歴史を語る上において、「中津」「慶應義塾」「アメリカ」という3つのキーワードがようやく揃いました。最近ニュースになった「東京歯科大学と慶應義塾大学が合併」は、ここから始まっているのです。知らない人には「どうして?」となったかもしれませんが、小野は歴史を知っているので「ついに来たか!」と感じました。

 すいません。まだ、日本の歯科医療の歴史には入れません。まずは、19世紀アメリカの歯科医療、そして江戸時代以前の歯科医療についてまとめなければなりません。福沢諭吉についても「明治以降の大学設立」についてまとめる時に、再登場していただきます。うーん、いつ九州歯科大学の歴史にたどり着くかわからなくなってきました。


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