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何でもできるとできないの価値観: 課題への取組み①

 昔から「自分は何でもできる」という確信のようなものがある。職場で「自分はダメなんです」という人に出会うが、謙遜で言っていると長らく思っていた。先日、吉野先生と話していて「いや、その人達は本当に自分がダメだと思ってるんだよ。」と指摘された。少し考えてみた。(小野堅太郎)

 「何でもできる」というのは、研究者としてノーベル賞級の大発見するだとか、大それたことが自分にも当然成し遂げられると思っているわけではない。謎を探求していれば、いつかそうかるかもしれないし、そうならなくても部下たちやその部下たちがそれを成し遂げるかもしれないだろう、との考えである。可能性は諦めなければ常に存在するし、成し遂げられなくても特に恥ずかしいことでもないので、「何でもできる」に強いポリシーがあるわけではない。

 「やれば、運が良ければできるだろう」「運が悪けりゃ、できないだろうし」ぐらいの感覚で「何でもできる」と考えている。だから、「自分はできないダメな人間」と考える人をあまり理解できなかった。謙遜しているのか、もっと深読みすると「その目標に取り組みたくない(嫌だ)」ということなのかなぁ、と感じていた。

 努力しても大きな目標に達することは少ない。うまく行った時、振り返ってみると「運がよかった」というのはよくある。失敗した時も「運が悪かった」ことが多い。成功するためには、努力して取り組む必要があるが、成否いかんは「運」である。確かに、努力のやり方によって勝率を上げることは可能である。しかし、スタートラインから既に有利な立場にいる人達もいて、いくら努力してもその人達には歯が立たないこともある。スタートラインでの差なんて「運」以外の何者でもない。

 「野球選手になりたい」とかいっても、生まれながらの身体能力がある程度備わっていないと努力しても無理である。しかし、「野球が上手くなりたい」は誰でも努力すれば上手くなれる。「研究を進める思考力を得たい」は誰でもできるが「ノーベル賞とりたい」はそう簡単にはいかない。「勉強ができるようになりたい、成績を上げたい」は誰でもできるが「東大に入りたい」はそんな簡単なものではない。

 この違いは、自己能力を成長させる意味合いで「できる」を考えるか、他者評価を受けられるレベルを達成「できる」かにあり、質が異なる。つまり、私の「何でもできる」は努力すれば能力アップできるという自信であり、他者から評価されるラインは超えなくてもかまわない。この立場からすれば「できない」という人を「やる気がないのかな」と捉えてしまうのも致し方ない。

 しかし、世の中は成果主義である。同じ努力をしても成功する人と失敗した人が出てくる。成功する人は一握りで、失敗する人がほとんどである。社会は成功する人をもてはやす。そして、成功者は妬まれ、失敗すると密かに嬉しがられる。成功にもランクがある。学歴、年収、職業、幸福感などなど、それぞれに高低がある。キリがない。しかし、みんなはそれを気にしている。社会が、職場が、家族が、なんらかの成功ラインを決めて、その達成を求めているのである。そこに達していなければ、確かに「自分はできない」となるだろう。すなわち、やる気がないのではなく、やる気はあるが自分の考える達成ライン(社会から、他者から褒められるレベル)には全然辿り着いていない、と考えている。

 実際、「自分はできないダメな人」との厳しい自己評価をする人の多くは、頑張り屋である。そのため小野は「謙遜している」と考えていたのだが、間違っていた。本人は頑張っても頑張っても「達していない」と考える永久機関のような人物であった。逆に小野は自己完結していて、頑張っても疲れたら(飽きたら)辞めてしまい、失敗しても「運が悪かった」と考えてしまう。自分に厳しい人から見ると口ばっかりの人間ということになる。

 この価値観の違いはどこから生まれてくるのだろうか。ポイントは、自己中心か社会中心かということになる。最近、夕食中に次男から「日本が外国から攻められたらどうする?」と聞かれたので「爆弾持って戦車と戦う」と即答したところ、家族みんなに笑われて「一番最初に逃げてそう」と言われた。そう、私は自己中心的に物を考えると思われているらしい。決してそうではないと思っているのだが、客観的には自己中なのかもしれない。次男はどちらかと言うと「自分はダメな人間」と評価するタイプである。「お前はどうすんの?」と聞くと、しばらく悩んで「わからん」と答えた。何も考えずに即答した私とは正反対である。

 ヒトは社会を形成して支えあって生きているので自己中心的すぎては生きていけない。逆に社会中心すぎても、自己犠牲が大きすぎて生きていけない。おそらく家族、職場、社会という各種コミュニティの中で、自己中心と社会中心の役割を持つ人間が生まれ、影響し合ってバランスが生まれているのだろう。どちらかに偏ると、そのコミュニティは崩壊してしまう。個の中では、自己中心と社会中心が共存するべきで、状況に合わせてバランスを取らないといけない。

 今回、吉野先生からの指摘で「できない」という人の価値観を少しは理解することができた。今まで全くわかっていなかった。申し訳ない。逆に、「できない」という人は、私のような「できる」と言ってしまう人を理解できてないかもしれない。お互い尊重し合って、時には入れ替わるぐらいのコミュニティを形成していきたいものです。

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