『瞳惚れ』のMVが最高という話
satoshi watanabeさんが監督をされたVaundyさんの「瞳惚れ」のMVが衝撃的で最高だった。制作陣の術中にはまってしまった、という感じだ。この記事を読んだ後だと術中にハマれないので、本記事はぜひ一度MVをフルで見てからお読みください。
フレンチに行って餃子が出てきたら、あるいは映画館に行ってニュースが流されたら、皆さんはどう思うだろうか。おそらく予想と違う展開に多少なりとも驚くだろう。ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の第一話ではいきなり情熱大陸(原作漫画では徹子の部屋)を思わせる映像が流れ、視聴者を困惑させた。我々はコンテンツを消費するとき、ある程度どのようなものが現れるか予想し、それを通じてコンテンツを楽しむ準備をしているのだろう。ゆえに予想と違うものが現れると戸惑い驚くのだ。
MVを見るとき、我々はどのような映像が現れるのを予想、あるいは期待しているだろうか。音楽に合わせたダンスや演奏シーン、内容に合わせたドラマ、歌詞の表示など、おそらく「楽曲が効果的に演出される映像」を待っているだろう。多くの映像作品で楽曲が映像を引き立てるBGMとして用いられるのと対照的に、MVでは楽曲が主人公であり、楽曲のために映像があるからだ。ゆえに我々はMVの映像に楽曲を引き立てる演出を期待し、演出される心づもりでMVを再生する。
しかし「瞳惚れ」のMVでは我々の心づもりはいきなり裏切られることになる。再生ボタンを押すとスタジオの用意をしているスタッフが映し出され、「太賀さん入られまーす。よろしくお願いしまーす」という声とともに主演の仲野太賀さんが登場し、衣装やヘアスタイルの調整が行われる。何か「演出されたもの」を見る心づもりだった我々は裏切られ、撮影の裏側を見ている気分になる。もちろん冷静に考えれば実際のメイキング映像ではなく、メイキング映像のような演出をされた映像なのだが、裏切られた戸惑い、驚きのせいでそんなことには思いも及ばない。
身だしなみの調整が終わると主演の仲野さんが曲に合わせて踊り始めるが、そこでも画面上部にマイクが映り込んだり、仲野さんの背後から踊る仲野さんの背中やカメラ、スタッフなどが映るアングルの映像が映されたりして「曲に合わせたダンス」を見ているという気分にはならず「曲に合わせたダンスを踊っている仲野さんとスタッフたちの撮影風景」を見ているという感覚が強く残る。その後も様々な演出はされるもののその感覚は変わらず、我々はすっかり舞台上の演じられた、演出された世界を見ているのではなく、自分達と同じレベルの現実世界を見ているという心地になる。彼は「仲野さんが演じる人物」としてではなく「仲野太賀」としてリアルに映る。こうして着々と我々は制作陣の術中にはまっていくことになる。
そして楽曲後半、Bメロから大サビ、曲の終わりにかけてである。我々が演出された世界を諦め、仲野さんがお茶目に踊る現実世界を楽しんでいると、一瞬女性のカットが入り、しばらくするとお茶目に踊っていた仲野さんが「あれっ?」とカメラの後ろの方を見ながら呟く。そして突然、ドアップで仲野さんの瞳が映され瞬きをしたかと思うと、パラパラ漫画のような映像に切り替わり、どんどんズームアウトしていき、彼の視線の先にいる美しい女性の横顔が映し出される。そして今度は女性の瞳がドアップで映され、そこからズームアウトしていき女性の顔、姿が順々に映し出され固まっている仲野さんにたどり着く。パラパラ漫画的な映像に止まった世界の一瞬の長さが感じられ、彼が女性と目が合い、釘付けになっているのが分かる。そして彼が「仲野太賀」として映っているがゆえに、状況のリアルさ、女性に惚れていく彼の感情が嫌でも鮮明に分かってしまう。我々はMVを通じて楽曲の主題である「瞳惚れ」を体験することになるのだ。つまりそう、メイキングのような映像は全てこの「瞳惚れ」、そしてそのリアルさのための下ごしらえだったのだ。
これに似た演出を用いたものとして、例えば先に挙げたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の第一話があるだろう。ドラマが始まると新垣結衣演じる森山みくりを取り上げた、実際に存在する番組である情熱大陸が流れる。ドラマが流れると思っていた視聴者は困惑すると同時に、取材されている森山みくりが実際に存在する人物なのではないかという気分になってしまうのだ。
おそらく表現者-鑑賞者という構造が壊れると鑑賞者は表現者を自分と同じレベルに存在するもの、よりリアルなものと捉えやすくなるのだろう。テレビドラマのメイキングやNG集、生放送やライブのハプニングが持っている面白さ(もちろん面白おかしいとは限らないが)はこれによるものなのかもしれない。これを逆手に取った演出が「逃げるは恥だが役に立つ」そして「瞳惚れ」のMVではなされているのだ。つまり表現者-鑑賞者という構造を壊す、正確には壊されたと鑑賞者に錯覚させることで、表現者というラベルを消してしまうのだ。
さらに付け加えるならこの演出は鑑賞者というラベルも消してしまう。表現者の存在を期待していた鑑賞者はその不在に驚きや戸惑いといった素の反応を示さざるを得ず、鑑賞者という自意識は薄れその人自身として映像を見ることになるのだ。
こうして知らず知らずのうちに制作陣の術中にはまった我々は鑑賞者からすっかり我々自身になり、リアルな仲野太賀その人を通じて、通りすがりの美しい女性に「瞳惚れ」してしまうのだ。
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