うそ
幼い頃、不意に食器を割ってしまった。
バレたら怒られる、怖い、やだなと思って綺麗に片付けて、それを言わないでいて、でも私はアホだから燃えるゴミにぶち込んでしまった上に食器が足らなくて、結局バレた。めちゃくちゃに怒られた。
食器を割ったこと、それ自体はよくあるミスだから仕方がない。
でも、それを黙ってたこと、無かったことにしようとしてたことをとにかく怒られた。
自分の悪行は棚に上げつつ、すぐに言ったところで怒られは決定してる訳だし、やっぱりどっちにしろ怒るんじゃん。だから言いたくなかった。怒鳴られたり叩かれたりするのが怖かった。と、くだらぬ言い訳をして更に親を怒らせて引っ叩かれたのもよく覚えてる。
そうやって、同じようなことを何回も繰り返しては怒られ、悲しませ、
うそはよくない。大事なことを黙っているのは良くない。間違えるのは仕方がないが、黙っているのが一番罪だ。と口酸っぱく教えられたし、そういう価値観を刷り込まれて生きてきた。
今でもやっぱりそう思う。
優しい嘘もあるし、あえて言わないこと、黙ってることがいい場合もあるのを、大人になってある程度理解した上で。だ。
だけど1歩引いて考える。
うそをつく側の気持ち。
怒られたくない嫌われたくない不利になりたくない、それは嘘をついていても、本当の気持ちなんじゃないかな。
あの時親に「怒られるのが怖かった」と言ったのは完全にただの保身でしかないのだけど、その気持ちをわかって欲しかった。
毎日なんかやらかしてしまってたし、そこですぐ怒る親が嫌だったし、もう少し言い出しやすい環境を作ってくれやという気持ちもあった。
多分親を信頼できていなかったのだと思うし、今でもその気持ちは、どこかしらうっすらと私に暗い影を落としている。
うそは良くない、大切なことを隠すのも良くない。何度も言うけど本当にそう。
嘘つくやつが悪いし、嘘つきは嫌いだ。
だけど、うそをつく側の気持ちになると、それはそんなに責める権利が私にあるだろうか?と考えてる。ずっと。
……小学生のときに死んだ爺さんが、福沢諭吉の「心訓」をよく読んでくれた。
この言葉の意味を今になって改めて考える。
悪いこと、とは言っていなくて、「悲しいこと」と言っているのはなぜなのか。
なぜ、この言葉が心訓の最後にあるのか。
なぜ、この言葉を声に出すと心がキュッと切なくなるのだろうか。
私なりに考えたけど、うそは他人につくものなのだけど、それは同時に自分に対してもつく羽目になるから悲しいのだ。
そして、それはとっても苦しい。
自分自身を否定して認めてあげられないことの証左だから。
嘘をつく、その裏には必ず「本当の気持ち」が隠されている。
理解して欲しい、寄り添って欲しい、怒らないで欲しい、嫌われたくない、がっかりさせたくない、こんな自分でも受け入れて欲しい。気軽に話せるようになりたい。
その気持ちを隠してつく嘘は、「もっとも悲しい」。
嘘がたとえバレなくとも、シラを切っているあいだが私は1番苦しい。
どんどん別の嘘を作ったり重ねたり、綻びが出ないようにやりとりにも気を遣うし、常に疑心暗鬼になって、他人のことが信用出来なくなる。(信頼ぶっ壊してるのはこっちなのにね)
罪悪感なのか、私がそういう価値観を教え込まれて生きてきたからなのか?違う。
やっぱり自分自身を否定するのは嫌だから。
少なくとも私は、そう思う。
だから嘘はつけないし、嫌いだ。
なるべくはつきたくない
だけど他の人に嘘をつかせてしまったとき、私にも寄り添う心が足りなかったのかなと少し思った。嘘は愛だなんて決して思わないけども。
そういう気持ちも含めて「もっとも悲しい」今でした。
気持ちの整理がつかないよ~。ドラえもーん……