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富士山・インティライミ
「名前負け」という言葉がある。
子どもにあんまり立派な名前をつけると、その名前の立派さに負けて、本人が見劣りしてしまう、というような意味だ。
たとえば、あなたが偶然知り合った人の名前が「漱石」だったとしよう。きっとそれだけで「この人はきっと文才があるに違いない」と思ってしまうのではないだろうか。
それで実際に文才があればいいが、もしなかったら、「なんだよ……」と勝手に裏切られた気分になるかもしれない。「漱石さん」は何も悪くないのに(笑)。
もちろん、子どもに「漱石」という名前をつける親は、きっと文学好きだろうから、その子どもも文学好きに育つ可能性は高いかもしれない。しかし子どもは、親の思い通りに育たないのが世の常なのである(笑)。
そういう「名前負け」に対して、「名前勝ち」ということもある。
たとえば、「フィヨルド」。
みなさんも学校の教科書で習った覚えがあるのではないだろうか。
はっきり言って、僕らの日常生活には全く関係のない言葉である。それでも、なんとなく覚えてしまっている「フィヨルド」。
授業で「フィヨルド」という言葉を習って間もない頃、友達とことあるごとに、
「フィヨルド!」
「ハァ〜、フィヨルド!」
などと連呼していたのを覚えている。
それはなぜか?
そう、単に「言いたいだけ」なのだ。
これがもし「フィヨルド」ではなく「氷河侵食湾」とかだったら、きっと見向きもしないだろうし、絶対に覚えないだろう。
「フィヨルド」は完全な名前勝ちである。
芸能人の名前で、このような「名前勝ち」を実感した例をひとつあげるならば、やはり彼だろう。
「ナオト・インティライミ」。
彼に全く関心がなくても、ついつい口にしてしまう。
サッカー関連の番組などに彼が出ているのを見ると、その翌日、「きのう、ナオト・インティライミがテレビに出てたけどさ……」などと友人に話していたりする。
だが、そこには特に伝えたいことなどない。ただ単に、「ナオト・インティライミ」が言いたいだけなのだ。
これは完全に「名前勝ち」である。
これにならって、僕も「マナブ・インティライミ」という名前にしようかな、と思ったこともある。そうすれば、みんななんとなく、名前を口にしてくれるのではないか……と。すぐ正気に戻ってやめたが。
「フィヨルド」と「インティライミ」。
共通するのはその「語感の良さ」と、ある種の「意味のわからなさ」だ。
「フィヨルド」は写真などで見たり、説明を聞いたりすることはあるが、実際に目にすることはまずない。だから僕らにとってはフィヨルドは、常に「よくわからないもの」として存在している。
ノルウェー旅行の目玉として、「雄大なフィヨルドをその目で確かめましょう!」などの煽り文句があったりするが、そもそもなぜ確かめなければならないのだろうか。みんな本当に「フィヨルド」に興味があるのか?
ただ単に、「フィヨルド!」と何度も口に出しているうちに、なんとなく「一度は見ておかなければならない」ような気になっているだけのような気がしてならない。
おそるべし名前の魔力である。
「インティライミ」にいたっては、「フィヨルド」以上に意味がわからない。
でも、「わからないから言いたい」のである。たぶん。
もしあなたの友人が「ひろし・インティライミ」に改名したとしよう。
あなたが彼にそれほど関心がなかったとしても、ことあるごとに「ひろし・インティライミ、どうしてるかな」などと話題に出したくなるのではないだろうか。
ところで、世界遺産に登録して欲しいけど、なかなか登録してもらえない遺産というのがある。それなどは、名前の後ろに「インティライミ」をつければよいのではないだろうか。
そうすれば選考委員も、ただその名前を言いたいがために、思わずその遺産を推薦してしまうに違いない。
世界遺産への登録に大変苦労したと言われる富士山も、「富士山・インティライミ」という名前に改名しておけば、10年は早く世界遺産に登録されていたはずだ。
このエッセイも、単に「フィヨルド」と「インティライミ」を言いたいがためだけに、2000字近くの文章を、それなりの時間をかけて書くことになってしまった。
恐るべし、名前の魔力。
あと「ユースケ・サンタマリア」、「イージス・アショア」とかもその一味だ。「きゃりーぱみゅぱみゅ」は、ちょっと違う。
そういうことだ。