言語化されない内なる声
自分の人生のなかで、とりわけ20代から30代半ばにかけて内言といいますか、頭の中に声がとびかっていた時期があります。個人差はありますが、人の頭の中では聴覚と同じ脳の部分を刺激する内なる声が生じています。これが体外の声と判別できなくなると、病理になったりもします。その声は勢いであるものの、明瞭な内容を持っているわけではなく、方向性のないエネルギーみたいなものを感じて、自分の行動に無駄を生じさせていました。
30代後半の少し暇なときにその声が伴っていると思しき内容をノートにひたすら書き留めました。声が考えさせようとしていることを文字にし、声が止まってもそこから推論できる内容を補い、まとまった文章になるようにし、また声がしたら書き留め、そこから連想や推論をして、以前書き留めたこととの関連性について推測したり、その推測を元に更に別の声を書き起こしたり、ひたすらそのプロセスを繰り返しました。
それがノート20冊くらいになったときでしょうか。不規則な内言を感じなくなり、自分の思考のスピードと内言のスピードの摩擦を感じなくなりました。そこから現在に至るまで、思考が手に負えない速度になることはなくなり、必死に追いつこうとしたり、追い払ったりする必要のあるものではなくなりました。
まずこれが何らかの正式な手順や学問的な根拠があって行われたわけではないということは但し書きを付けたいと思います。私は心理学の専門的な教育を受けたわけではありません。学部生の頃は思想史のゼミにいましたし、ウイリアム・ジェイムズは読んだことがあったので意識の流れについては知っていましたが、ノートに書き留める作業をしていた頃はほとんどそんなことは忘れていましたし、むしろその体験を経て、意識に関する哲学文献を読むようになったくらいです。その点で言えば、私は正確に内言を捉えようとしていたわけでさえありません。意図して声を捉えようとしていたので、意図的に注意を払われた上で捉えた内言だけを拾っていたでしょう。さらに、ノートに文として情報を拾ったため、不整合な情報はノイズとして除去されたのではないでしょうか。
これも信用できないので、話半分で読んでほしいのですが、この作業を経て、私は悩みとか迷いとかいう感情が極端に薄れました。もちろん、不確実なことに接すると不安な感情にはなるのですが、不安定な思考になることはほとんどありません。ノイズが極端に少なくなったのです。もともと仕事は早い方だったのですが、この経験を経て、一部のタスクでは更にスピードが上がりました。これは元々不要なほど内言が暴れ回っていた私の状況を前提としていますので、たぶん、多くの人には再現できないものだと思います。仕事術にはなり得ません。
この内言の時期に興味深いことが起こっていました。暇なときや夢のなかで、自分がしている仕事に対して、自分の中で印象的だった顧客と、自分と異なる視点を持っていた仕事仲間の姿をとって、様々な評価を下すということが起こったのです。これに関しては、内なる声の頻度が少なくなったときに発生し始め、明確なメッセージ内容をもった対話のような形で展開されたのが印象的でした。まるでプラトンの対話篇さながらに、イメージのキャラクターが私の仕事に対して批評を行うのです。もちろん、私は彼らを現実的な存在としてではなく、想像上の産物としてみなしていました。とはいえ、私がすべてコントロールしているわけではなく、私が関心を持っていることに対してかなりの自律性を持った形で話すのです。今では想像上のキャラクターは夢にさえ登場しません。おそらくその最大の理由は、彼らの視点を私が明確に内面化したからです。
私は私に起こったことを想起して文章に起こしているため、私的な体験を極めて不正確な形でここに記すことになっています。ここからは教訓を得られるわけではありませんし、正確な事実といえるわけでもないことを明記しておきます。