ヨハネス・フェルメール
ヨハネス・フェルメール(本命:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト)
ネーデルラント連邦共和国(16~18世紀にかけて現在のオランダ、ベルギー北部に存在した国家)で1632年10月31日に誕生したと言われており、1675年12月15日に43歳で亡くなったとされている。
バロック期(16世紀から17世紀初頭にかけてイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式)を代表する画家の1人。
また、レンブラント、ハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家。
フェルメールの絵の特徴は、
①写実的(事実をありのままに描き出すこと)な手法と綿密な空間構成、光による巧みな質感表現。
②人物などの中心をなす部分は精密に書き込まれた濃密な描写に対し、周辺の事物はあっさりとした描写にすることで見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。
③鮮やかな青「フェルメール・ブルー」と呼ばれる。(ラピスラズリに含まれるウルトラマリンと呼ばれる顔料)
④少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵の具の点で表現。(この技法をポワンティエという)
などがあげられる。
代表作は、
「真珠の耳飾りの少女」
「牛乳を注ぐ女」
「デルフト眺望」
などだ。
最も初期の頃は「マリアとマルタの家のキリスト」(1654~55)に見られるように物語画家として活動していたが、やがて1656年の「取り持ち女」の頃から風俗画へと転換していく。
現存する作品点数は研究者によって異同はあるものの32~37点と少ない。
この他、記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。
フェルメールの父レイニエルは本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブ(大衆酒場)と宿屋を営んでいた。
フェルメールの誕生の前年に画家中心のギルド(職業別組合)である聖ルカ組合に画商として登録されている。
フェルメールは、1653年4月5日にカタリーナ・ボルネスという女性と結婚する。
しかし、フェルメールの父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことから当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対される。(フェルメールは、結婚を機にカトリックに改宗した。)
結婚当初は、メーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母マーリアと共に暮らし始める。
彼らの間には、15人の子供が生まれた。
そのうち4人は夭折してしまうが、(若くして亡くなること)それでも13人の大家族であり、画家では養うことのできなかったため、裕福な義母のマーリアに頼らざるを得なかったと考えられる。
フェルメールは父親の死後、1655年に実家の家業(パブ兼宿屋)を継ぎ、経営に乗り出している。
こういった収入やパトロン(後援者、支援者など財政支援をする人)、先述の大変裕福な義母のお陰で、当時純金とほぼ同じほど高価であったラピスラズリを原料とするウルトラマリンの顔料を惜しげもなく絵に使用できたという。
フェルメールは結婚した8ヶ月後に聖ルカ組合に親方画家として登録さえている。
当時親方画家として活動するには、6年の下積みが必要であったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、誰かは不明。
1655年9月20日にピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで彼との親密な付き合いが始まった。
この2人は後に「デルフト派」と呼ばれるようになり、他のオランダの都市に比べてこの時代のデルフトの美術品・工芸品はよりエレガントな傾向がある。
それは、デルフトの上品な顧客層やオランダ総督(各州の首長)を務めた方の宮廷が近くにあり、宮廷関係の顧客好みが作風に反映されていたからである。
1657年に彼の生涯最大のパトロンであるデルフトの醸造業で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。
このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。
彼の援助があったからこそ作品をじっくり丁寧に作り上げることができ、年間2~3作という寡作(少ししか作品を作らないこと)でも問題なかったとされている。
1662年から2年間聖ルカ組合の理事を務め、また、1669年からも2年間同じ役職に就いている。
2度にわたって聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、画家として高い評価を受けていたことがわかる。
フェルメールと共にオランダ黄金時代を築いたレンブラントは好景気に沸いたが、1670年代になるとフェルメールにとって冬の時代を迎える。
第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや彼とは違った画風をとる若手画家がでてきたことが原因だ。
追い打ちをかけるように彼のパトロンであったファン・ライフェンも亡くなった。
更に、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福ではなくなり、オランダ絵画市場も大打撃を受けた。
戦争勃発後以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の移り変わりの激しさにも見舞われることとなった。
この打撃によってオランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1ほど減少している。
フェルメールの11人の子供のうち8人が未成年(当時の未成年は25歳未満)であったため、フェルメールは、大量に抱えた負債を何とかしようと必死に駆け回ったが、首がとうとう回らなくなり、1675年にデルフトで死去した。(死因不明)
フェルメールの死後、妻カタリーナに一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産し、過酷な生活を送る羽目となった。
カタリーナの母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫たちを守るために自分の遺産を直接孫に手渡したため、カタリーナの生活は改善されず、1680年にはマーリアが死去し、1687年に56歳でカタリーナも死去した。
18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。
理由は、
・あまりにも寡作であったこと
・作品が個人コレクションであったため公開されていなかったこと
・当時、絵画は理想的に描くものであり、非日常的なものとらえられていた たため画風や主題が軽視されていったため
しかし、19世紀に入ると、それとは反面、民衆の日常生活を理想化せず、描く画家が現れ、再び写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得した。
そして、今に至る。
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/フェルメールの作品
https://met.exhn.jp