▪️人間が実在しない理由
人間には花子だとか太郎だとか、いろいろな名前がつけられていますが、それは形を区別するためにつけられた固有名詞であって、名前そのものが実在しているわけでは無いのです。本質は一つしかありませんので、形の違うものを同じ本質で呼び合っては区別がつかないので、便宜上個別の名前をつけただけです。 形の数だけ本質があるなら、形に名前をつける必要はなかったでしょうが、本質は一つしかありませんので、そうするしかなかったわけです。でも、人間はその固有名詞に惑わされ、あたかも名前が実在するかのような錯覚に陥っているのです。
例えばコップとは、コップの形をしたガラスです。コップは形につけられた固有名詞で、実在するものではありません。実在しているのはガラスです。ガラスが形を取ったものに、コップと名前をつけているだけで、実際にあるのはコップではなくガラスです。コップは名前だけの存在ですから、実在していないのです。しかし、私たちは、あたかもコップがあるような錯覚に陥っているのです。
同 様に人間とは、人間の形をした生命です。実際にあるのは人間ではなく、生命という名の本質です。生命が形を取ったものに、人間と名前をつけているだけで、実際にあるのは人間ではなく生命です。人間は名前だけの存在ですから、実在していないのです。 その証拠に、コップを粉々にすれば、誰もコップとは呼びません。人間を分子状に粉々にすれば、誰も人間とは呼びません。もし本当に実在するなら、コップも人間も分析できますが、コップも人間もただの名前ですから、分析しようがないのです。だから私は人間は実際しないというのです。
なぜ錯覚はいけないかといいますと、本質に生きないで、名前に生きてしまうからです。つまり、生命に生きないで、人間に生きてしまうからです。生命に生きれば、四苦から解放されるというのに、人間に生きるために四苦に翻弄されてしまうのです。私達は今、実在しない人間に生きながら、本当に生きていると信じているのです。
形が形を生むなら、それは形かもしれません。しかし、本質が形を生むのですから、それは本質であるはずです。