「可能」性のはなし

現在、日本において人工中絶が可能なのは、WHOの妊娠期間の定義に従った上での22週未満と法的に定義されている。しかし、それは法が制定されてからずっと変わらなかった期間ではない。

以下、Wikipediaからのコピペ(一部編集)である。
1976年以前までは通常28週未満
1976年から1990年までは通常24週未満
1990年に通常22週未満と基準期間が短縮されていっている。

ここからは私見に戻る。
人工中絶可能期間の法的許容期間の短縮は新生児医療の進歩によるものである。要は医療があれば22週以降は母体から出てもかなりの確率で生存が可能であるという「胎児側の命の権利を科学で支えることができるから」という文脈で考えられるだろう。科学的観点から「胎児が母体外で生存できる期間は概ね22週以上」と語ることに異論はない。このことには実際に22週で出産に至った例において児が医療の元で生存できた例が多数存在することによる。

法的観点から考えたとき、権利の優先についての社会的価値観が問われる問題だと私は思っている。

親の堕胎する権利を認めれば、胎児の生まれる権利が侵害される。
胎児の生まれる権利を認めれば、親の堕胎する権利が侵害される。

では人工中絶で守られた・守られるのは誰なのだろうか?
順当に考えれば胎児の生まれてくる権利が守られている。 しかし中絶を迫られる状況において、中絶するという親の自己決定が社会的に許容されない親の権利の侵害性についての議論はなされているのだろうか?
22週という期間は、親が公正に自己決定を行い、それに対する基盤を整えるための時間足りうるのだろうか?当然のことながら、22週未満というのは、妊娠の認識を問わずあくまでも最終月経などの因子から算出されるものであり、21週5日で妊娠に気づいた場合、猶予期間は1日ということによる(実際には医療機関の受診などもあるため1日もない)。また22週を過ぎてから妊娠を認識した場合、そもそも原則として中絶の権利がないと考えられる。
妊娠の認識から21週6日までの期間が親の自己決定に関して十分な考慮に足りないとすれば、胎児の生まれる権利を守ることで、親の中絶をする権利が侵害され、共倒れあるいは嬰児殺につながる可能性も十分に予見されると考えられる。

民法においては出生するまで胎児は権利を有する人ではないとのことである。
そう考えると、人となる可能性が高いものを保護する権利が、人の権利より優先されるのは何故かという問いが立つ。それは優性思想に基づく優生保護法への反省に基づくと説明される。その説明に関しては、「子どもを持つ権利が子供を持つことを禁止される義務に優先する」という意味だと私は感じており、「人となる可能性が高いものを保護する権利が、人の権利より優先されるのは何故か」という問いに対する直接的な回答ではないと考えている。

自然科学の一端を担っている個人としては、人となる可能性が高いものを保護する権利を優先した結果と、保護しなかった結果について、それぞれに十分なサンプル数を確保した上で追跡調査をして比較検討をすればいいと一瞬思うが、それは倫理的に妥当性を欠くことは一目瞭然なので、自然科学の一端を担っている個人として却下せねばならない。

個人の中で結論が出ている問題ではないが、できるからということで決めた法律が、別の罪を犯すことを後押しすることだけは避ける構造になっていて欲しいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?