コストを払うのは誰だ?

今日もコーラを買った。最近、500mLペットボトルも値上がりが続いていて嗜好品の購入を躊躇うようになってきた。
「図書館のお夜食」(原田ひ香)の初版本が手に入った。「数学者たちの黒板」(ジェシカ・ワイン)はまだ入荷していないとのことなのでまた今度購入する。
電気代の請求が来ていた。生活のためにもちろん払うが、値上がりの理由に腸が煮えくり返る。

さて、上記行動は私の日常である。非常にわかりやすい消費行動であり、請求された明確な対価を支払っている。
私がそれを消費したから・サービスを享受したから対価を払う。とてもシンプルでわかりやすい原理である。
消費行動が核をなし、需要と供給を行動原理とする市場は、あくまでも世界の一部であり、全てではない。
非換算的な価値・サービスを担う世界として一番身近なものは政治や行政、司法などのいわゆる公務の分野だと思う。ここでもやり取りの基本は金銭であるが、コストと対価の間に若干の非対称性がある(そのために税金がある)。
市場や公務の世界と併存する「社会」という世界がある。多くの人が様々な形で社会に関わっている。そこの根幹は、人と人との関わりという明文化が困難なものだと私は思っている。
社会において関わる「人と人」の範囲を最小限にすれば、それは「私とあなた」になり最大限にすれば「私とホモ・サピエンス全員」になり、その間のどこかにチューニングして、我々は社会に参画している。
「人と人」の範囲を設定するということは、「人と『人でないもの』」を決めることと同義である。ここでの『人でないもの』は「その社会で人と同等に扱われること想定されていない人」程度の意味である。
そのチューニングを「私とホモ・サピエンス全員」の方向に動かして公務の分野に持ち込んだのが海外であればホロコーストへの反省からの人種政策が、国内であれば部落差別の解消の推進に関する法律などが例として挙げられるだろう。そこから発生した「人と人」の範囲のチューニングが「私とあなた」の問題となる。上に挙げた例では政策や法律が設定されたため「私」がそれまで『人でないもの』として意識して/無意識に扱っていた存在を自らと等価値の「人」として扱うことへの強制力が働く。その強制力は「私」に変わることを要求する。変わることは貨幣的な意味ではなく広義としてのコストを負担することである。
それまで『人でないもの』として意識して/無意識に扱っていた存在を自らと等価値の「人」として扱うことへの強制力は金銭的コストを共用することもある。改正された障害者差別解消法に定められた合理的配慮に民間事業者が対応することは、多かれ少なかれ民間事業者がコストを負担することである(私は改正された障害者差別解消法に定められた合理的配慮とその対応に対して賛成であるが、民間事業者は市場を主たる属性としているが故に、そのコストは公で担うべきだと考えている)。

コストの中で金銭的あるいは物理的なものは計算可能性が高いため、コストとしての計上および認識が比較的容易である。ここで扱う範囲の数は概念として共有しやすいことがそのベースにある。
では、このコストが数値化するものが困難なものであった場合どうなるか。数値化することが困難なコストの一つに認識の問題はある。ここにおける認識は偏見ないし差別と言い換えることが可能であるとする。

「日本語お上手ですね」
「男なのに裁縫上手だね」
「そのお年で勉強続けているなんてすごいですね」

褒め言葉に見えて、これらはすべてマイクロアグレッションである。
「褒め言葉」がマイクロアグレッションになるのは妥当性を欠く「AはBである」という前提、すなわち偏見に基づいているからである。
国籍、人種は言語を規定するものではない。
技術は性別に由来するものではない。
年齢が学ばないこと理由にはならない。
しかし上記の「褒め言葉」がマイクロアグレッションとみなされるのは、個人が「国籍・人種・性別・年齢などの因子により規定されるものではない」という価値観に基づいているからである。この価値観自体はマクシミリアン・ロベスピエールが1790年に書いた『国民軍の設立に関する演説』を初出とする「自由・平等・博愛」に見ることもできるが、フランスにおける女性参政権の確立が1944 年であることを鑑みると、「自由・平等・博愛」の主体および対象である人間と市民に女性は含まれていなかったと判断することが妥当である。つまりこの流れにおいて女性は『人でないもの』であったと導かれる。同様の文脈で、公民権運動を経た1964年以前、黒人はアメリカで『人でないもの』であったと考えられる。先述の「部落差別の解消の推進に関する法律」の制定が2016年であることから日本でも『人でないもの』は存在していたし、まだ存在していると考えられる。
『人でないもの』が人として扱われるようになることは「国籍・人種・性別・年齢などの因子により規定されるものではない」という価値観の拡大であり、社会において関わる「人と人」の範囲の最大化である。

公務の領域で定められていても、個々人の抱く価値観は(少なくとも現在の日本の法では)「内心の自由」を根拠に強制することはできない。しかし「公務」「社会」「市場」から個人は離れて生きることができない以上、それらに個人は干渉される。そこで価値観を変えるよう強制されたと感じられるのであれば、それは個人の中の価値観が時代の中で「偏見」とされたことと同義ではないだろうか。その「偏見」を口にすることも自由であり、その「偏見」を元に団結することも自由である(この場合における自由は必ず責任を伴うことには留意が必要である)。構造的差別に対するカウンター行為はこれを元としていると私は解釈している。

しかし、なぜ構造的差別に対するカウンター行為が起こるのだろうか。
それに対して私は「『人でないもの』を人として扱うコストが生じるからである」と考えており、その上で「『人でないもの』を人として扱うコストを誰が負担するのか?」という質問で解を求めたい。

大学の入学試験において募集要項などに記載なく浪人など理由に得点操作が行った大学が、元受験生に対する賠償責任を負う判決が出された。その判決文の要旨として「募集要項には浪人年数や年齢などを合否判定に用いると記載がないのに、一律に不利な取り扱いを図ったことに合理的理由を認めることは困難」というものがある。当然である。
この一連の得点操作が行われた大学の入学試験において、マイナスの方向に得点操作が行われなかった群、すちわち「下駄を履かされた」群が存在する。彼らはその入学試験において公平・公正な審査を受けられなかったという点において被害者である。
これから「募集要項に記載されていない事項による合否判定」はより非とされるだろう。しかし、そのとき並行してそのときであれば「下駄を履かされた」群になれた人が「下駄を履けなくなる」。それは『人でないもの』を人として扱う過程の中で起こる不当な権利の毀損ではないのだが、知らなかったことはいえ「下駄を履かされていた」群の属性を持つ人がそれを当然であり望ましいことと思うことは考えづらい。なぜなら、「下駄を履かされていた」群の属性を持つ人が新規にコストを払わされる構造がそこに有るからである。訴訟の「下駄を履かされた」群は(本人の責任ではないが)「大学入試における募集要項に記載されていない事項による合否判定による不当な扱い」に対する直接的なコストを負うことができない。
本来であれば見かけ上コストを支払うこととなった「下駄を履かされていた」群の属性を持つ人がコストの負担を求めるべきはその構造を作り出した側であるが、そこを変えるコストは「『人でないもの』を『人でないもの』」のままにしておくコストより遥かに高い(だから「構造的」差別なのである)。
これは一例であるが差別に対するカウンター行為につながる例であると私は認識している。

市場におけるコストは消費者が負担する。
公務におけるコストは「市民」が負担する。

では社会におけるコストは?


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