愚痴を話すことは、その気持ちを離すこと
たまにふとそこで広げられる会話の目的はなんだろうと考えることがあります。今日ちらっと気づいたことは「愚痴」の話。
ずっとこれが正しいと思い込んできました。が。
最近はこの答え、ちょっと違うかも?と思うようになりました。「こいつ嫌い」といった、その人を否定するのは違います。そんな話するくらいなら、自分から離れられるように何か策を考えるべき。
でも愚痴は、どんな人に対しても出てくる可能性があると思う。家族、尊敬する人、友人、上司、同僚。考えの違う人が集まった環境。そこで、自分の考えと違うものに遭遇した時、消化不良を起こした、モヤっとした“愚痴”であるならば。消化の手助けをするための「はなす」方法もひとつの手段だと思います。
もしかしたら、聞いてもらうことで、話した本人が「こういう見方もあるのか」と、なにか発見できるかもしれない。そういう消化酵素的な役目の「愚痴を話す」ことは、ある意味有意義なのかも。
ただ相手に共感するだけじゃなく、お互い気づいたりとか、なにかプラスになる一言を言えるようになりたい。そんなことを思った夜でした。
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