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生みの苦しみがなくても、コンテンツに「思い入れ」を持てるか

最近、AIを使ってガンガンに記事を作りまくっております。生産性でいえばググっと上がっていて、時間当たりの記事本数に関しては数倍になっているのでは…と言っても過言ではありません。ただ、その分だけ手ごたえが増えたかというとちょっと分かりづらい気持ちもあって、整理してみます。


生産性が高まるにつれ分散する「コンテンツへの思い入れ」

AIを使って記事を書くとなぜ、手ごたえを感じづらいのか。

自分なりに整理すると、AIを使って、自分の頭脳労働の一部を転嫁した結果、「コンテンツへの思い入れ」が少し低下しているような感覚があるからな気がします。

純粋に、たくさんコンテンツを作っているので1つ1つに対するマインドシェアが下がるというのもありますし、要するにこれまでは、苦労して自分の頭で考えて記事を書けば書くほど「こんなに苦労して書いたんだから、読んでもらわないともったいない!」という気持ちが強く働いていたのかもしれません。AIを使って執筆部分の「生みの苦しみ」が薄れたことで、以前のようなお仕着せがましさが、良くも悪くも薄れてしまっているのかもしれないなと。

鼻息荒く「読んで!!」と迫るような文章

とはいえ本来、「AIで書いたかどうか」はHowの話であって、「コンテンツに対して思い入れを持てるかどうか」とは別の次元の話であるはずです。だから、こんな感情を持つ人もいれば、持たない人もいる、という話でもあるのだろうなと思います。

「生みの苦しみを味わったコンテンツほど思い入れが強い」などと発信してしまうのは僕自身、プロの意識としてどうなんだという自覚があるのですが、根本的に「書くのが大好き」な発信者が、AIを用いて「生みの苦しみ」を和らげてしまった結果としての内面的な熱量の変化を客観視すると、こういうことは起こりえるだろうなとも。たぶん、思い入れが伴わない原稿は、SNSでも強くプッシュする気力がそこまでわかず、埋もれていってしまう。それでも意義はありますし、自分にとってのストックとしては良いと思うのですが、社会に対するアウトプットとしてはいま一歩にはなってしまうのかなという予感もあります。

そう思うと、(どんな作り方をするにせよ)「思い入れを失わないジャンルを持つこと」が、これから強いんだろうなあと思ったりします。AIみたいな新しいツールを使いこなし、「生みの苦しみ」が低下した中でもなお、情熱や思い入れを失わないバランス感覚が、これからのコンテンツ制作においてより重要になってくるんだろうなと。

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