「Kinds of Kindness (邦題: 憐れみの3章)」感想
せっかくnoteを始めたので、別のところに置いていた映画の感想を放出。
Yorgos Lanthimos監督最新作である「Kinds of Kindness」をMOVIX京都に鑑賞に行った。1月にあった「千年女優」のリバイバル上映で偶然見た予告に惹かれて「哀れなるものたち」と出会い、型破りで既存の倫理に縛られず主体的に自身の人生を生きようとするBellaの生き様・冒険を通して謳い上げられた人生讃歌、我々の性や社会的行動の規範さえも舞台装置として取り込んで頸木から解き放とうとする力強いメッセージに感動し、私は劇場で涙を流した。これが私が「Lanthimos」監督作品としての映画を知ったきっかけで、以降色々調べてみると「Killing of a sacred deer (聖なる鹿殺し)」のような今でも鮮明に印象が残っている怪作をとっていると知ってすっかりファンになってしまった。そういうわけで、それから大体6ヶ月が経ち、次の作品が9月に公開されると知ってからはずっと楽しみで彼がどんな作品や思考を届けてくれるのか心待ちにしていたわけである。本当はその日は「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」の劇場版前編を見る心積もりでいたのだが、いい時間になかったのでこちらに。結果的に大満足の午後を過ごすことができた。
ざっくりとした筋書きをまとめておくと、邦題の通り本作は3つの作品が独立して連なるオムニバス形式で、それぞれのタイトルに含まれる「R.M.F」というどうやら人物名のようなイニシャルが共通している。もちろん様々な媒体で言われているように役者も共通しており役回りやキャラクターを替えながら、同じ面子で異なる世界観とストーリーを作っている。1つ目の作品はジェシー・プレモンス演じるロバートという男が上司のレイモンド(?, 1つ目の作品で固有名詞が結構抜け落ちている)に食事や行動はては妻との性生活まで指定され忠実にこなすことで成功している様子が最初の方に描かれる。その後交通事故に見せかけた殺人を指示されそのような道義的責任に耐えられないと断ったことでレイモンドから拒絶されて転落人生を歩み始めるものの、親しくなったエマ・ストーン演じる美女が新たなレイモンドの「役者」だと気づいて彼女に先んじて標的の殺害を完了させ、レイモンドの元に戻り彼の腕の中で満ち足りた表情で眠る描写で終わる。
2つ目の作品では、同じくジェシー・プレモンス演じるダニエルという男が、海難事故から奇跡的に生還した妻が過去の自分の好みの曲を覚えていなかったり靴のサイズが合わなくなったことから、「目の前にいる女性は本当の妻ではないのでは」と疑い始めハンガーストライキのような絶食を始め「食べるなら妻の肉」などの狂気じみた要求を始め、最後には(おそらく)妻を殺害して(おそらく妄想の中で)「本当の妻」を迎えて平穏を得るところで幕引き。
最終話では今度は水を神聖視する新興宗教を狂信するエミリーをエマストーンが演じており、死体を生き返らせることができる救世主を求めて彷徨いながら、棄てた家庭の娘に絆されて家に帰ったところ元夫にレイプされ、汚れた水が体内に入り込んだとして教団から放逐される。なんやかんやあって救世主を見つけ、それに伴って1話目で亡くなった交通事故の犠牲者と同じ役者が演じる死体が蘇生するが、エミリーは球団に向かう途中で交通事故に会ってメシアを失って終わる。この死体が共通しているという点では完全に独立しているとは言えないかもしれないけどね。
色んな記事でこの作品のテーマが「愛と支配」であると語られているのを目にした。それはおそらく部分的には本当なんだろうが、私としてはやや首を傾げざるを得ない。ランティモスがここで描いていたのはそのような単純な言語化の及ぶ情動なのだろうか。
一連の物語において、主人公格の男女は明らかにエゴイスティックで言ってみれば一般的な価値観からずれて歪んでいて「愛」(Loveという意味で)という感情に突き動かされていたようには思えなかった。ここでいう「愛」というのはラブストーリーや「恋愛」と聞いて思い浮かべるような感情であり、別の意味を私の中では付加してない、もちろん歪んだ愛やエゴイスティックな愛も存在するからだ。ただ一方で、そういった類のものを愛と分類するのは果たして正しいのだろうか、とも思う。それらの行為や感情が顕す情動はより原始的な人間の本能的な承認欲求、自分が安心できるよすがを求める心の働きではないのかと思う。「Kinds of Kindness」も同様である。彼らは必死に懸命にアクションを起こして自身にとっての安息の地を得ようと努力する。それは非常に自分勝手で加害性が高く理解しがたいものだ。1話目のロバートは最後には殺人者となることを受け入れるし、2作目のダニエルはおそらく最後は妻を殺害したのだろう。3作目のエミリーは家庭をめちゃくちゃにし何人かの女性を死に至らしめている。だが一方で、それらの行動はすべて自分自身の居場所を求めて主体的に藻掻き苦しむ彼・彼女たちの苦しみが引き起こしたものであり、彼らにいわゆる「Love」のような愛が欠けていてそうした本能的な欲求に頼る以外にどうしようもなかったものであり、彼らが生きていくためにはそうすることが(少なくとも主観的には)よいものだったのは確かなように思える。
つまりはこういうことである。ランティモスは人間讃歌・人生讃歌の監督なのだ。どれほど異常で歪んで見えたとしても、彼らの行動や感情は少なくとも彼らにとっては非常に重要で生死に直結するもので、いってみれば「生きよう」という意思を持った人間が藻掻いているのだ。結局、規範や社会理念などあらゆるものは他者の中で生きていくために重要でやりやすくなる取り決めに過ぎない。私たちは自分自身の生きやすさや過ごしやすさのために他人にもこういった規範の順守を求めるけれども、個々人が最低限の肉体的自由を持っているし、そもそも個々人は自由な身である以上、それを強制することに果たしてどれだけの正当性があるだろうか? 結局、人間は一人で孤独で、集団の規則を守る義理などどこにもないのだ。ランティモスはいわばそういったアナーキーな世界として人間世界を描写し、それでもそこで自分自身の意思をもって生きようとする人々を巧みかつ荘厳に描いている。
もちろんこのような世界の描像はひどく苦しく、面白いと思える人は少ないだろう。でも刺さる人には刺さるだろうし、私にはとても刺さった。たぶんこういう感じに彼の作品を捉えるのがよいのではないかなと思う。つまりなんらかの正しい解釈を推理しようというよりも、このようなメッセージを感じながら彼の価値観表現に脳みそを殴られるのがよい鑑賞方法なのだ。「R.M.F」にどんな意味があるのか? なんて考える必要はない。そもそも大した意味なんてないのだろう。私は結構ランティモス作品が好きで、昔(黒歴史かもしれないが)小説を書いていたことがある。私もそういった意味深な単語を用いることが多かったが、そうした単語は一貫して何らかの推理のカギとなるよりも、むしろどう考えても理解できず不可解な違和感となるように設計した。要するに、私は(おそらくランティモスも)私の作品を解き明かすというよりも読んだ人が自分の作品に殴られてショックを受けてほしかったのではなかろうかと思う。そういうものなのだ。
より詳細に見ていこう。1作目では一見主体性なんてないようにも見える。ロバートは上司の命令に従っているからだ。しかしよく考えてほしい。上司の命令に「主体的に」したがってついには殺人まで犯したというのも事実なのだ。権力に反抗することのみが勇気のいることなのだろうか? もちろんそうした場合の方が勇敢かつ思想を持っているとみなされやすいが、このような捉え方がはびこる現代ではむしろ、権力に阿ることさえも一つの勇敢なる行為になるだろう。そういう意味で、ロバートはエマ演じる美女(名前は忘れてしまった)が最終的に殺人を起こすことを主体的に阻止することを選択したともいえる。もちろん彼はレイモンドに従うことに精神的な安息を感じているが、それこそ彼が願ったことであり、とうとう手に入れた幸せなのだ。
2作目も同様に、プレモンス演じる警察官は疑心暗鬼に苛まれて最後には自ら妻を殺害して幻想の妻を家に迎え入れる。この作品が最も「愛」の中でも加害性が高いだろう。彼のやったことは自分が思う「妻」の描像の押し付けであり、その枠を通してしか自分が相手を愛せなかった。それはLoveよりもさらに原始的な感情、おそらく他人に対する認知をどのように捉えるかという情動の働きが上手くいかなかったのだろう。妻が海難事故で行方不明の間、彼は必死に彼女のことを想おうとして友人との乱交パーティーの動画を見たり仕事が手につかなくなったりするけれども、そうした中でどんどんと自分の中の妻のイメージというものができていったのだろう。私たちは先入観や価値観、何らかの枠組みに当てはめなければ世界を認識できない。本来無条件に受け入れるようにさえ思える、遭難した妻の帰還はそういうわけで警察官ダニエルの方の日常への帰還を妨げたのだろう。妻は孤島(?)で耐え凌いでいたころの話を犬が自分たちにチョコレートをくれたと表現していた。それはおそらくは枠組みを改変した結果、うまいこと食べたくないものでも食べれるようになったということなのだろう。(妻はラム肉が好きでチョコが嫌いだったみたいな話がここで効いてくる)一方で、ダニエルの方では囚われた枠組みのせいでは絶食を始めるけれど、そういった意味ではよい方向には働かなかった。ただやはりランティモス監督の素晴らしいところは、どちらがよいかなど陳腐な結論を出さなかったこと。もちろん、一般的な視点ではダニエルの歪んだ認知はよくなかったかもしれない。だが一方で、ラストシーンであるように確かに彼は精神の安息を見つけた。この究極的には一人ぼっちの世界ですがれるよすがを見つけたわけだ、これが幸福でなくて何を幸福と呼べようか。そういう意味で、自分自身の認知の枠組みに囚われるしかない人間の醜悪さと尊さ、そしてどう足搔いても逃れられない中で藻掻く幸せがよく表現されている。
3作目は「愛とは結局水のようなもの」なのかなと思った。人体の70%を占めるけれども自給自足できずどこかから摂取しなければならず、こんなにもありふれているのに渇きで苦しみ、良くないものを飲めば腹を壊す。誰もがそれを求めているけれども決して満たされない。乾いた冬のプールへ飛び込んで死ぬシーンはそういう意味で非常に示唆的だった。1度目はそこに水があると思って飛び込み、2度目はそこに水がないと知っているにもかかわらず飛び込んだ。生きるという苦しみ、人間の感情をすべて剥ぎ取ってそれでも残り続ける情動、赤子が持つ(のだろうか)「ただそこにいたい」というような情動を満たしてくれるものを求めて飛び込むか、それともそんなものは手に入らないと達観して損切りするために飛び込むか。「哀れなるものたち」のベラの母親にも通じるような内容だと思う。
色々書いてきたけれど、まあたぶん何か思いつくたびに書き足していくのだろう。ここまで書いて思うのが、これは憐れみについての物語ではないということだ。やはり憐れみというのは見返りを期待しないこちらから向こうへの一方通行のものに思えてしまう。登場人物たちが抱いているのは、もっとエゴイスティックかつ始原的な承認欲求で、ひたすらに相手から自分の方向へ欲しがるもののように思える。その手段として愛や優しさがあるのであって、言うまでもなくそれらは主題ではない。愛やら理性やらあらゆるものを人間から除いて行って最後にそれでも残ってしまう搾りかすは何か、それを突き詰めたのが本作であり、ランティモス作品に共通する姿勢だと思う。それは愛のように美しかったり皆が羨んだりするようなものではない、醜悪で直視しがたいほど倫理規範から外れた承認欲求というか安心感への渇望なのだろう。しかしそれは確かな真実味をもって私たちの胸に迫ってくるもののように思う。
どうか一人でも多くの「Kinds of Kindness」視聴者が邦題のために「憐れみ」をテーマと誤認して解釈しないことを祈っている。まあ私が言いすぎな可能性も十二分にあるし、訳者はもっとちゃんとした作品理解のもとで「憐れみ」という単語を選択したのかもしれない。「やさしさ」と「憐れみ」って似てるよね、みたいな。でも、言ってみれば「Kinds of Kindness」ってやさしさみたいなもんっていってるだけで(やさしさの種類が直訳な気もするけど)別に優しさとは言ってないし(やや苦しいか)、そういう意味で俺がごちゃごちゃいえるような多義表現を残してほしかったね。