災害研究者が新型コロナウィルス感染症について考えてみた(5)私達がマスクを脱ぐ日は来るのか
5月25日、1ヶ月以上続いた緊急事態宣言が解除となった。
5月14日、8都道府県を除いた39県で緊急事態宣言が解除とったことに続き、
5月21日には関西2府1県でも同宣言が解除された。そして、5月25日には首都圏でを含む全国で同宣言が解除となった。
こうした背景には、新規感染者数の大幅な減少と医療体制の改善がある。連日、100人を超える感染者数を記録していた首都圏でも、ここのところ10人以下の新規感染者数を記録するにとどまっている。他にも、医療供給体制の確保やPCR検査の実施体制等、複数要因を総合的に判断したことが決め手となったとされている
政府は第二波の到来を警戒しており自粛の継続を訴えているが、都市圏では街に繰り出す人達の姿が徐々に見られるようになってきており、新型コロナウィルス対策の関心は平時への回帰にシフトしつつある。これに伴い、経済活動の再開のあり方、外国人の入国に向けた対策、自粛要請や需要の減少に伴って経済的に困難に直面した市民や企業への支援に関する議論がなされてきている。
今後、政策対応に求められる考え方についてもう一度整理しておきたい。
1.「時間」が希少となる緊急対応
感染症管理サイクルにおいては、そのステージ毎に希少な政策資源が異なる。そのため、各ステージの推移に合わせて求められる政策対応とその目標も変化する。
緊急対応のステージでは「時間」が希少な資源となる。一度、新型コロナウィルスの感染拡大が見られるようになれば、それ以上の拡大を食い止めるためには入国制限や社会活動の自粛といった感染防止策を早期に行うことが不可欠である。感染者への早期の医療支援と合わせて、緊急対応のステージにおいては、まさに「時間との闘い」が勝負を分けることとなる。
こうした観点から言えば、(ダイヤモンド・プリンセス号での対応、国際線の運行中止、オリンピックの延期判断といった政策対応は別としても)これまでの政府の経済対策は迅速であったとは言い難い。実際、政府が経済支援にあたって用意した制度の多くは所得や減収幅等で対象者を限定しており、平時における資源再配分の発想の域を出ないものが多い。実際に、政府は当初、一部の国民に対してのみ30万円の給付を掲げていた他(その後、国民全員に10万円の給付を行う方針に転向した)、雇用調整助成金、持続化給付金、無利子無担保の融資といった企業支援にあたっても、売上が一定程度減少している法人を対象とした。
経済支援において給付対象者が限定される場合には、申請者が支援対象となっているか確認するための資力調査を行う必要があるが、そうした考え方は平時において資源配分の問題に対処する際に用いられるものである。確かに、支援にあたって様々な申請書類を基に事前審査を行うことは、平時においては制度利用者の不正やモラルハザードを防ぐ上で重要な措置と言える。しかし、こうしたモニタリングに時間を割くことは、緊急時においては貴重な「時間」を浪費することと表裏一体である。一時期、雇用調整助成金の申請手続きがあまりにも煩雑で、結果的に給付実績も極めて少ないことが問題視されたが、「時間」との闘いが勝負の分かれ目となる緊急時に、平時の資源配分問題を解くための制度を援用すれば、こうした帰結が生じることは自明であった。
このように緊急対応において社会活動の抑制に時間を要すれば、新型コロナウィルスの感染拡大による影響が長期化しかねない。実際、当初は経済支援の具体的な内容やその給付時期が不明瞭であったこともあり、少なくない企業や労働者がその事業活動や就労の継続を決断せざるを得ない状況にあった。欧米諸国のように迅速に十分な規模の経済支援を行っていれば、緊急事態宣言の解除はもう少し早かったかもしれない。
緊急対応のステージにおいてこのようにスピード感に欠ける制度を政府が採用した理由は、官邸の能力不足や果断な政治的決断に欠けたこともあるだろうが、今回の感染症のような緊急時に際して援用できる適切な制度を行政が有していなかったことが大きい。そして、このことは過去の大災害における政策対応とは無関係ではない。緊急時に即応した支援を行うためには、緊急時のための支援制度を創設しておかなければならなかったのだ。
これまで国内で大災害が発生する度に、被災者は迅速な現金給付による支援を繰り返し熱望してきた。家族や友人、住宅や財産、仕事先や学校を失った多くの人々は、その生活再建のために相応の資金が必要となるからである。しかし、政府はそうした声に理解を示さず、国民の間にも共感が広がることはなかった。多くの政治家、実務家、有識者からは「焼け太りは許されない」「モラルハザードになりかねない」「義援金で十分」「事故や窃盗の被害を国が補償しないように、(政府が引き起こしたわけでもない)自然災害の被害を国が補償することはない(※原発事故の被害については、国が補償することになっている)」といった批判が公然と展開された。被災者に一分一秒でも早く緊急的な経済支援が必要であるという主張は十分に吟味されることなく、突如、市井の人々が生活困窮者に陥ってしまうという災害時の社会的課題は、生活保障や損失補償といった平時の資源配分の問題として理解され、また処理された。緊急時に被災者に対して迅速な経済支援を行うための制度は遂に創設されなかった。(なお、災害時に被災者支援を行う際の基本的な枠組みとなる災害救助法では、本来、現金給付による支援が可能であるが、通達により実質上禁止されている)
政府はその後、対応の遅れを繰り返し指摘されたことから、30万円の給付案を撤回し国民全員に10万円の給付を実施する案へと方向転換を図った。その目的は「国民の間に一体感を醸成するため」と説明されたが、これは事実上、個人に対する緊急経済支援のための制度が確立された瞬間でもあった。
一面において、新型コロナウィルス感染症により影響を被る人々の範囲は、東日本大震災のそれよりも幅広いことから、その経済対策は大災害に比しても特段の対応が正当化されるのかもしれない。だが、これまで大災害における困難な社会的課題に向き合い、適切に教訓を引き出した上で、その対処のあり方を制度として確立しておけば、今回の感染症においても迅速な経済支援が実行できたのではないか。一人の災害研究者としてこうした思いを拭いきれない。
なお、こうした緊急対応のステージにおいて経済支援を行う目的は、その後の復旧復興のステージに向けた基礎を構築することにあることに留意したい。緊急対応のステージにおける経済支援には、社会活動の抑制を行う間、企業や労働者への経済的影響を削減しつつ、感染の早期収束を図ることで、復旧復興に向けた政策対応を行うことができるタイミングを早めるための防疫投資という側面があるのである。
2.復旧復興と平時への回帰
緊急事態宣言が解除されれば、政府の対応も「時間」が希少な資源となる緊急対応のステージから、復旧復興のステージへと駒を進めることになる。感染の第二波、第三波が来ると予想されてはいるものの、いつまでも外出や社会活動の抑制を継続することはできない。いつかは復旧復興のステージに踏み出すことになる。
災害管理サイクルにおける復旧復興のステージにおいては、平時と同様に資本が希少な資源となる。限られた資本を被災者の生活再建や地域社会の再生に向けてどのように配分していくのか、制度や規制を通じていかにして民間の動きを誘導していくのか、効率的で実態に合った政策対応が求められる。こうして、緊急時における政策対応の目的やその手段は、徐々に平時の社会におけるそれに回帰していく。
なお、長期的に復興計画を推進するためには幅広い市民からの賛同が欠かせない。このため、復旧復興に向けた総合政策を推進する上で、行政は合理的で技術的に優れた行政計画を立案・提示するだけでなく、そうした行政計画(復興計画)の策定・立案の過程において、市民が主体となって計画を策定できるよう多様な議論を喚起することが重要である。
こうしたことから、復興計画の内容やその策定過程は、被災地毎にそのあり方が異なるということになる。多くの場合、被災時の社会的課題に適応した社会の建設に向けて復興の歩みを進めていかなければ、中長期的には被災地の衰退を通じて被災者の生活再建も停滞してしまう。だが、地域毎に産業構造や社会的課題は異なることため、復興計画において強調されるポイントも被災地の社会状況やその発展の水準によって異なることになる。さらに、復旧復興のステージにおける主役は企業と市民である。公共政府の役割は、地域の持続的な開発を実現し、減災のステージに向けた足がかりを築くために、そうした民間の復興に向けた動きを支援・誘発することにある。しかし、地域ごとに行政と民間の関係性には個性があるため、自治体が民間の行動を支援・誘発するための方法論には教科書的な解答はない。結局は、新型コロナウィルス感染症からの望ましい復興計画やその形成過程のあり方は、地域毎に工夫して作っていく必要がある。
3.コロナ後の社会に向けて
こうした観点から、新型コロナウィルス感染症からの復旧復興を考えてみれば、重要な点は二つある。第一に、今後はウィルスと社会の共存に向けた社会構造を構築する必要がある。自然災害からの復旧復興と同様に、地域社会毎に存在する脆弱性を克服し、感染症に適応した社会の形成に向けた復興を目指す必要がある。
「Withコロナの時代」という表現が広まりつつあることも、このことを裏付けている。緊急事態宣言が解除されたとは言え、感染リスクを考えれば、コロナウィルス以前の都市部や地域における社会活動のあり方に回帰できると考える人々は多くないだろう。少なくともワクチン開発が実現するまでの間は、コロナ以前には当たり前の光景であった都市部の人口過密や都心における企業組織の集積といった風景は大きく変わらざるを得ない。人口密度が低い地域でも、医療施設や設備が心許ない状況にあっては、少ない数でも感染者が発生すれば直ちに医療資源が逼迫する状況にもなりかねない。とはいえ、過疎化や高齢化、人口流出が進む地域に新しく医療施設等の公共施設を建設しても、それらを持続的に維持管理することは容易ではない。財政的な観点から安易な市町村の統合に走るよりも、地域社会の将来像を検討した上で、持続的な開発(あるいは戦略的撤退)に向けた行動指針を住民が主体となって策定しなければいけない時期に来ている。
さらに、新しい社会の形成にあたっては人生観に対する社会的合意の修正も重要である。実際に、日本社会に生きることの意味を問い直す機運は高まってきていいるように思われる。社会活動の自粛やStay homeの期間がなければ、日本においてこれほどまでに家庭を中心とした働き方を実践する機会はなかっただろう。こうした経験を経て、一見、面倒に思える家族や知人との距離感や人間関係のあり方が、仕事への献身やキャリアの開発だけでなく、充実した人生を送る上で重要であるという素朴な事実に改めて気づくことになった。同時多発的に多くの企業がテレワークを試行する機会を得たことで、常々、業務効率の改善や合理的な経営判断を是とする企業の多くが経路依存に囚われ、保守の名を借りた守旧的な発想に陥り、生産性の向上よりも社内の権力構造への忖度を優先してきたことが衆目に晒されることになった。労働は生産行為ではなく、様式に近かったのである。国会討論がオンライン上でなされないことに違和感を持つ人々も少なくないかもしれない。需要が滅失したことで直ちに文化・芸術活動に従事する人々が困窮するだけでなく、観光資源を維持管理する原資を捻出することも難しくなってしまう現実を見て、芸術や文化遺産をただの代替可能な消費財・サービスの一種とみなしてきたことにも気付かされた。街の個性を彩る個人商店が苦境に陥れば、予想を超える数の人々がそれを支えようとする姿を目にしたことは嬉しい発見だった。
都市の姿は、その社会に生きる人々の総体としての価値観を表現する形態を取っている。
こうしたコロナ禍の経験から得られた気づきや反省は、新しい都市圏の形成や都市と地方の関係性を再構築していくためのきっかけとしたい。従来のように都心を中心に集積が進むことで同心円状に開発が波及し、過密な都心から放射線状に伸びる鉄道の沿線に代わり映えのしない街の風景が続くような都市開発のあり方を見直し、複数の中規模の都市圏を緩やかに繋ぐような分散型の社会に移行できないだろうか。テレワークを積極的に活用しながら職住近接を図れば、単純に通勤時間の削減に繋がるだけでなく、家庭で過ごす時間が長くなることで「きちんと暮らす」ことが「働くこと」と同様に重視されることになるだろう。暮らしの質に着目する人々が増加すれば、家族や知人との付き合い方、学校や地域活動への参加のあり方が変化がすることになる。また、暮らしの嗜好が多様化すれば、それを支える財やサービスを提供する企業や店舗が増えてくることも考えられる。地域の気候や風土にあった暮らしやそれを支える営みが見直されることで、環境への配慮に対する優先順位も向上するだろう。さらに、各都市圏が多様な交通手段で緩やかに繋がることができれば、それら都市圏の周辺地域の住人も医療施設を含む都市部の様々な公的インフラにアクセスすることができるようになるかもしれない。分散型の都市圏はエネルギーの生産と消費のあり方も変えるだろう。物流の円滑化にも貢献する可能性がある。そして、都市圏の分散化が進んでいけば、都心は際限なく集積の利益に向けた吸引力を発揮する場所というよりも、必要に応じて人々が往来し自己表現するための舞台のような位置付けになるかもしれない。災害対策の観点からも一極集中のリスクは繰り返し指摘されてきたが、都心にあらゆる社会的機能を集中させる必要がなくなれば、首都機能移転のような政策も現実味を帯びてくる。
上記のような都市像がコロナ後の社会にとって望ましい姿であるかは慎重な検討が必要ではあるものの、ウィルスとの共存に向けて新しい都市と地域の形態へと移行することは、長期的に膨大な新規需要を喚起することになる。経済活動の復興を考えれば、緊急対応のステージが去った今、今後は短期的な復旧需要に留まらない長期的な開発を通じた需要喚起策が求められる。経済的影響を受けた企業や個人への補償や給付が需要喚起の上で意味を持たないわけではないが、コロナウィルスからの経済的復興を単純な財政政策の問題として捉えてしまえば、感染症との共存を図ることも、新しい世界経済の構造に適応した社会の建設も行うことができなくなる。政治には社会の将来像に関する議論を先導し、幅広い市民の意思を迅速に集約し、長期的な社会のビジョンを具体的な開発計画に落とし込む器量と想像力が求められている。既存の制度や社会構造を前提として9月入学へと移行するべきかどうか、といった小手先の議論に貴重な時間を割いている余裕はないはずである。
第二に重要な点は、地方により大きな裁量を委ねるような措置を講じることである。今回の緊急対応のステージにおいて、少なくない数の地方自治体の首長が、政府の対応を待つことなくリーダーシップを発揮して対応に当たる様子を目にすることになった。地方分権の時代に向けてこうした機運を後押しするためにも、財源の委譲にとどまらず、地方自治体に裁量を委ねるような対応を政府には求めたい。
こうした観点で言えば、現在の政府の経済対策を見ると地方自治体への権限や財源の委譲に関する言及が少ない。政府が実施しようとしている第二次補正予算では、いわゆる企業への損失補填や資本注入、労働者に向けた休業給付といった政策対応が謳われているが、本来、これらは緊急対応のステージにおいて行われるべきものであり、復旧復興に向けて地域の社会的課題を克服し、感染症と共存できるような社会の建設に向けた政策対応ではない。さらに、仮に、企業への損失補填や資本注入、休業者や学生への給付を行うとして、こうした政策は全国一律に対応を行う内容であることから、地方自治体がその個性を発揮するような余白に欠ける。また、ユニバーサルなサービスとしてこういう政策対応を行った上で、各地方自治体に特色のある支援を期待するのであれば、交付金の増額に留まらない自治体の裁量と財源を拡大するような措置が必要となる。
実はかつて、大災害からの復興において地方が主体となって政府に大胆な権限移譲を迫ったことがある。阪神・淡路大震災において、自治体や市民、企業が一丸となってエンタープライズゾーン構想と呼ばれる規制緩和に向けた政策提案を行い、政府にその実現を迫ったのである。これは、ポートアイランドと呼ばれる神戸市の海側に浮かぶ人工島に国内の税制や規制から自由な地域を作り出し、サービス産業の集積を図ることで、被災地の経済復興における先導役を果たしてもらうことを期待する政策提案であった。しかし、こうした政策を実現するためには、制度上、被災地の特別扱いを容認する必要があった。結果から言えば、こうした案は関税や規制といったキーワードにアレルギーを持つ中央省庁からは全く相手にされず、政治からは一国二制度は認められないとして理解を得ることができなかったため頓挫した。(参照:林敏彦「大災害の経済学」PHP新書)なお、その後、小泉政権時代に「特区」という手法が定着することになったが、これはエンタープライズゾーン構想に関する議論にその着想を得ている。
今後の復旧復興のステージにおいては、緊急対応のステージ以上に地方自治体のリーダーシップが問われることになる。地域の実情を汲んで、長期的な開発計画を策定・推進できる主体は、地方自治体をおいて他にないからである。政府の議論をリードし、地方から複数の大胆な政策提案が出てくるような機運が高まらなければ、地方への権限と財源の移譲はおぼつかない。市民はそうした自治体の動きを後押しするためにも、首長や自治体の振る舞いを高い期待値を持って観察することが肝要である。こうした地方自治への関心の高まりがなくては、メディアや報道も情報の生産を行う価値を見出すことができない。地方自治体が新しい地域社会の建設に向けて責任のある行動を取っているのか活発に議論することは、地域社会のガバナンスの質の向上に向けた基礎でもある。
新型コロナウィルス感染症の終わりがいつになるのか、人々の関心はつきない。だが、われわれがマスクを脱ぐことができる日は、実際はコロナウィルスが収束しワクチン開発が完了した時ではなく、今回の危機をきっかけに社会の脆弱性を克服し、新しい社会構造への移行が完了し、多くの市民が社会の復興を実感した時ではないだろうか。