ノーベル賞受賞者が逃げ出した日本の封建的風土
2021/11/01
日本ではダメだということ
「私は協調しながら生きることができません。それが日本に帰らない理由です」。
今年のノーベル物理学賞を受賞した眞鍋淑郎・米プリンストン大学上席研究員の受賞直後の記者会見の中の言葉です。
「アメリカでは好きなことを研究できます。アメリカでは周囲がどう感じているか気にはしません。アメリカでの研究者生活はすばらしいものです」。周囲との協調など考えていたら、独創性のある研究活動など出来やしないというわけですね。まあ、ノーベル賞をお取りになるほどのお方なら、日本社会はさぞかし鬱陶しいでしょうな。
それでも「日本人はいつも互いに迷惑をかけないよう気を使っています。とても協調性ある関係を結ぼうとしています」などと一応でも誉め言葉風に解説されています。きっと皮肉でしょう。だからこそ、「最近の日本では、好奇心を原動力とした研究が以前より少なくなっているように思います」という指摘が結構突き刺さってきます。「最も興味深い研究とは、社会にとって重要だからといって行う研究ではなく、好奇心に突き動かされて行う研究だと思います。私は本当に気候変動の研究を楽しみましたし、すべての研究活動を後押ししたのは好奇心でした」。
研究者の好奇心とはいうまでもなく個人的なものです。一方、協調性とは集団的な価値観への帰属意識を前面に押し出すものです。要するに眞鍋氏は、柔らかい口調で、日本では社会や組織が、個人的なものへの自主規制を通して独創性のある研究を押しつぶしていると言っているのです。
いくら「空気」を研究しても
古くは山本七平の「空気の研究」、最近でも「同調圧力」批判など、日本人でも「協調性」重視社会の問題点については折に触れ指摘してきました。それはどれも、日本社会の文化に根ざした特性として片付けられてきたと思います。それも確かなことなことですが、ここでは別なアプローチをしてみます。ミクロの組織論です。
高等研究の場とは関係したことはありませんが、業界としては、そのお隣さんである出版やジャーナリズムの場に長く身を置いてきました。「出版メディア」というと、個性や独創性の塊、センスのよいものほど評価される世界、知的で実力主義の組織と思われがちですが、それはとんでもない勘違いです。
私がかつて在籍したいくつかの会社で見聞きした例を紹介します。
ある伝統しか誇るもののない出版社に、ヒット作の企画に長けた大手出版社の編集者が移籍してきました。そこで早速、過去の出版物の見直しを。以前、ベテラン編集者が手がけた著作をタイトルと表紙を変えて出し直したところ大ヒット。それでこの編集者氏どうなったかというと、会社中からいじめを受けて他へ去って行きました。
ある出版社では、小規模だったこともあって従業員の組合組織化率が高く、昼間は組合員室で皆で出前の弁当をとって食し、休日は連れだって野球に旅行。組合幹部は言わずと知れた団塊の世代。若手たちは内心嫌がっていても、表向き「いやぁー、学生運動の時代って憧れるんですよね-」とか追従を言ってついて行く始末。ある若手が自分はそんなもの憧れないと口走ったところ、村八分にされ、あほらしくて会社を去りました。
「優秀」意識と言うことではもっと別な話もあります。これもやたら伝統だけ長く、気の遠くなるような過去にビッグネームを輩出したものの、その後はぱったりの会社。あるとき業容拡大のため中途採用を固めて採ったところ、元々いた新卒採用社員たちが騒ぎ始めました。ちなみに新卒も中途も、試験は同じ、身分は同じ。要するに新卒からいた人間を担当人事で優先しろと言うことです。そのときの理屈が自分たちは「優秀」だから。どうみても彼らだけではどうしようもなかったから、新たに外から人間を採ったのですが。その結果、結構日本を代表する文化人や識者から、「何であそこの会社は変なんだ」と眉をひそめられる始末です。
年功序列組織はいずれダメ人間で満たされる
一応、クリエイティビティが生命線の出版業界で日々起きているのがこんなことです。なぜそうなるのか。「日本的な文化」という一言ですませられる訳はありませんね。中で体感したことのある人なら分かると思いますが、これは組織の問題です。
例えば「ピーターの法則」というのがあります。階層社会(年功序列型の階段を上るように権限が増す組織を思い浮かべるといいです)では、人はあるレベルの仕事をこなすと、より高いレベルの階層に上がる。次々こなしていって、次々階層を上がっていくと、どこかで能力の上限に達します。つまり下から積み上げた実績型の階層組織では、組織の上の方は与えられた仕事に対し能力的には一杯一杯の、いわゆる無能で満たされることになります。
日本型の年功序列組織では、無能になった後も年功で階位は上がりますから、もっと悲惨なことに。その上に問題が。近代社会では建前上、能力主義、実力主義を採っているので、組織の上に上がる人間は「優秀」ということにしなければならなくなります。無茶なとは思いますが、意外や組織員全員がそれを優秀だと言い合うことで組織も組織員の評価も社会的地位までお手盛りで守られてしまう。
組織が独創性、創造性を取り入れるのは、上の人間がそう動いたときだけ。もし中堅、若手が独自の路線を指向したら、それは組織の「優秀さ」を毀損する行為であり、考えられる限りのハラスメント、差別行為によって排除されてしまいます。クリエイティビティを標榜し、他より売れなければ沈んでしまうはずの出版メディアですら、この有様です。まして研究者の世界は、アメリカは全く違うでしょうが、日本の場合、お役所そのもの、公務員の世界です。眞鍋氏が、「自分には無理」というのはよく分かります。
日本もかつて発展段階にあるときは、まだフロンティアがそこここにあり、独創性のゆりかごとなっていたようです。しかし、もはや拡大成長の時代は過ぎ、一方であらゆる組織は能力の上限を超えて上り詰めた方々で満ちあふれています。今の年功序列飽和状態の日本は、もはや科学立国などとはほど遠い地点にあるのでしょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?