バイバルスの物語とタタールの軛
2023/07/01 Newleader
アイン・ジャールート
13世紀のモンゴル帝国の勃興は、その拡大と侵略の道すがら、ユーラシア大陸の多くの民族、文明、そして個人の運命を翻弄していきました。なかでも現在、ロシアとウクライナと呼ばれている地域は1236年に始まったチンギス・カンの孫、バトゥの西征の直撃を受けました。この侵略の中、チュルク系遊牧民クマン族の子として、黒海沿岸地域に生まれたバイバルスは、少年の頃、捕囚となり奴隷として売られながらも、後年、モンゴル帝国を叩きのめして歴史を転換させる立役者となる、数奇な運命を辿ります。
ヴォルガ流域から黒海沿岸にかけてのキプチャク草原の遊牧民は、古代のスキタイ人から近年のコサックに至るまで、有能、勇敢な騎兵の供給源として知られます。バトゥの遠征自体、モンゴル高原からこのキプチャク草原までのステップ地帯を統合する狙いだったとみられています。
クマン族は、一部がハンガリー平原にまで逃げたものの、多くが捕まり、奴隷として売られました。バイバルスも14歳の頃、奴隷商人の手に渡り中東各地の奴隷市場を転々とします。最後にアイユーブ朝エジプトのスルタン子飼いのマムルーク(奴隷身分の騎兵)に買われたことで運が開けます。その後、その出自にふさわしい騎兵としての資質を開花させ、頭角を現していくことになります。
アイユーブ朝は12世紀に第3次十字軍を破ったことでイスラムの英雄となったサラディンによって創始された王朝。この時期も対十字軍戦争の矢面に立っていましたが、その最中にスルタンが亡くなり、マムルーク達が半ばクーデターの形で、新しい王朝、マムルーク朝を成立させます。バイバルスも一軍の将となり、対十字軍戦争で猛将として名を上げていきます。
そして1253年、チンギス・カンの孫で、モンケ、クビライの弟、フレグによって再びモンゴルは大規模西征を起こします。今度の目標は中東。ペルシャ地域を制圧後、1258年にバグダットを陥落、500年続いたイスラム帝国のアッバース朝を滅亡させます。さらにシリア、エジプトを標的に。ところが、ここで大カアンであるモンケが死去。後継を決めるクリルタイに参加するためフレグは部下のキト・ブカに軍をまかせ一時帰国します。
この危機にマムルーク朝では、スルタンがバイバルスを司令官に任命。1260年に共同してパレスティナのガリラヤにあるアイン・ジャールートでキト・ブカ率いるモンゴル軍を迎撃して大勝します。キト・ブカは戦死。シリア地域からモンゴル軍を駆逐します。これでモンゴルの歴史的な西進は終息することになりました。日本への元寇(1274年、1281年)よりも前、モンゴル帝国を打ち破ったということでは世界初でした。この直後、バイバルスはクーデターを起こし、スルタンに即位します。モンゴルの侵略によって奴隷に落とされた少年の見事な逆転劇です。
モンゴル帝国の後継者
キプチャク草原の北、ルーシー諸侯もまたバトゥ西征の嵐に襲われました。しかし、その後の運命は対照的でした。モンゴル支配下で、今のロシアの源流となるモスクワが台頭。それを成し遂げた人物がバイバルスと同世代人であるアレクサンデル・ネフスキーです。
モンゴルは征服を受け入れたルーシー諸公には貢献義務を課す一方、それさえ守れば比較的緩やかな支配にとどめました。騎兵の供給源であったキプチャク草原と違い、今のロシア地域はそれほど魅力ある土地ではなかったようです。1252年にモスクワも支配するウラジーミルの大公となったネフスキーは、ジョチ・ウルスもしくはキプチャク汗国と呼ばれるこの地域のモンゴルに擦り寄ります。他のルーシー諸公からの徴税を請負い、自分の権力と地位を守るためにモンゴルの武力に依存しました。ウラジーミル大公は後にモスクワ大公となり、ルーシーの中でのモスクワの抜きん出た地位はこれによって確立します。彼が対外戦争の勝利、正教会の擁護者として民族の英雄視される背景には実はモンゴルの影がありました。
ロシアの歴史家は、このモンゴル支配を「タタールの軛」と呼んで過酷な支配を民族的屈従として忌み嫌っています。現実にはそれを強要してきたのはモンゴルの代理人であるモスクワであり、ルーシー諸公から見れば、実はモスクワこそが「タタールの軛」だったわけです。
モンゴル帝国が世界史上初めて実現した、東西を包含した政治的な統合体の記憶の上に、ロシア帝国、ソビエト連邦、現在のロシア連邦と、かつてのモンゴル帝国の版図を最も広く受け継いだことからも、ロシアはその後継者といえます。そしてモスクワ大公国の後継国家であるロシアは支配文化においてモンゴル帝国からの連続性を感じさせます。
決して判官びいきではない
ロシア人が「タタールの軛」として忌み嫌う、無制限な力の信奉、弱者への一方的な支配の欲求、権威主義体質、他者の存在を軽視する傲慢さ、強弁体質など、ヨーロッパから見て「アジア的」と言われるこれらの要素は、実は日本のような周辺諸国からするとロシアの体質そのものじゃないかと思えます。
これはロシアだけではありません。例えば中国は、清朝で満州のカアンがモンゴルの大カアンを兼ね、中華圏を膝下に置くという、元朝と同じ構造の大帝国を実現したということでモンゴル帝国の後継者といえます。そしてソビエト連邦のコピー国家である中華人民共和国は、清朝の版図、そして自分が欲しいところを「歴史的な中華帝国の版図」として強弁し、周囲に強要しています。
日本にしてみれば、近世以降、ユーラシア大陸とはこのような周囲を慮らない巨獣たちの住処であり続けたわけで、元寇以上の迷惑をモンゴル帝国の遺産から受け続けています。
日本などまだいい方です。ウクライナ地域ではキエフが陥落したあと、その後、長くまともな民族国家が成立できず、周辺の大勢力に押し殺された状態が続きます。
故郷を失いながら個人的な力量で帝国に一矢報いたバイバルス、帝国に擦り寄って後継国の祖となったアレクサンデル・ネフスキー。2人の姿は、現在のロシアとウクライナに、そしてユーラシアの権威主義大国とそれに抗う周辺国の姿にダブって見えてきます。
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