生成AIを凄腕シェフに喩えてみた 〜生成AIのやいのやいのに物申したい!〜
Twitter界隈の、生成AI「やいのやいの合戦」
最近、Twitter(現X)で『生成AI』がかなり話題になっている。
ただ正直、私自身は少し「きな臭い」「胡散臭い」という印象を受けている。しかし、それは「生成AI」そのものについての印象ではない。「生成AI」自体は技術として非常に興味深いけれども、その周りで語られている内容や、議論に参加している人々のトーンに違和感を覚えてしまうのだ。
どうやら今、Twitterでは生成AIをどんどん使っていくべきだという「生成AI推進派」と、生成AIは危険なツールだから使うべきではないという「生成AI規制派」に分かれて日々やいのやいのと論争が繰り広げられているようだ。実際に「生成AI」で検索すると、そのやり取りが目に飛び込んでくる。ただし、技術的な話題やニュースに基づいた意見交換はごく一部で、ほとんどが「自分たちの派閥」に対する意見のぶつけ合いばかりに見える。正直、私はその手の「派閥争い」は得意ではない。
とはいえ、そんなことを言いながら、私は実際には「生成AI」に日々助けられている側だ。仕事でも多用しているし、なんだったら生成AIを業務に導入するチームの一員でもある。そういう意味では「生成AI推進派」に属するのだろう。それ自体は否定しない。でも、Twitter上で繰り広げられている「推進派」としての論争には加わりたいとは思わない。少し距離を置いて、その様子を見守っているだけだ。
誤解されがちな生成AI
そういう風に、日々Twitter上での「やいのやいの合戦」に目を向けていると、両者の意見に共通する大きな問題が見えてきた気がした。それは、多くの人が「生成AI」そのものを誤解しているという点だ。「規制派」はもちろん、「推進派」の中にも誤った認識を持ったまま声を上げている人がいるように感じる。例えば「反対派」の人たちは「生成AI」のことを「盗作ツール」などと呼んだりするし、「推進派」の人たちも生成AIを使えばどう使っても著作権を侵害しない「魔法のツール」だと思っている節がある。
結果として、どちらもピントのずれた論点で争っていて、議論が一向に前に進まない。それどころか、こうしたやり取りが続くことで、生成AIという技術そのものに対して、私と同じように、「きな臭い」「胡散臭い」と感じる人が増えてしまうのではないかと思う。その結果、生成AIについて真剣に考える人が減り、この技術の可能性に向き合うこと自体が難しくなってしまうだろう。
「生成AI規制派」の中には、「生成AIなんて誤解されたままでいい」という人もいるかもしれない。でも、それは非常に危険な考え方だと思う。生成AIは、恐らく今世紀最大級の発明の一つとも言える技術で、その影響力は絶大だ。だからこそ、規制するにしても、推進するにしても、その基盤となる知識が不正確であるのは非常に危険だ。技術を正しく理解せずに自分の身の振り方を決めるのは、とてもリスクがある行動だと私は思う。
そこで、生成AIについて、ささやかにせよ、ある程度知識を持っている私としては、こんなインターネットの片隅に埋もれた私のNoteを読んでくれる人たちに、少しでも「生成AI」がどういうものであるのかを知ってもらえたらと思い、こうして文章をつらつら書いている。もちろんそんな殊勝な気持ちだけではなく、Twitterの「やいのやいの合戦」を見ているうちにフラストレーションが溜まってきたから発散したいというのも理由の一つではあるのだけども、それでも少しでも役に立てば幸いだと思う。
では、そろそろ本題。生成AIを「凄腕のシェフ」に喩えてみよう。
生成AIを「凄腕のシェフ」に喩えてみる
生成AIというものを説明するのに、シェフに例えてみるのが分かりやすいと思う。この生成AIは、まるで世界中の料理を食べ歩いてきた経験豊富なシェフのような存在だと想像してほしい。そのシェフは一度食べた料理の味やテクニックを参考にし、食材(データ)や調理法(アルゴリズム)への理解を深めることによって、元の料理のレシピを持たなくてもその味を自分で再現できるようになる。特定の料理をそのままコピーするわけではなく、これまでの食の知識と経験を活かして新しい料理を作り出すイメージだ。生成AIも同じで、インターネット上などの膨大なデータを学習し、そこから新たなコンテンツを生成している。
シェフが食べて参考にする料理は、普通にレストランやお店で提供されている一般的なものだ。少なくとも、シェフは食べてもいいと許可をもらった料理だけを食べていて、間違っても入ってはいけない場所にこっそり忍び込んで料理を盗み食いしたりしている訳ではない。そうやってシェフは、色々な料理を食べることで自分の腕を磨き、自分の料理を作るのだ。
そんな凄腕のシェフがいるとして、そのシェフに注文をするのは誰だろう。そう、それが生成AIのユーザーだ。生成AIユーザーはこのシェフが仕える主人のようなものだ。主人が「こういう料理が食べたい」とシェフに伝えれば、その指示に従った料理をすぐに作ってくれるし、好みじゃない部分があれば何度でも作り直しもしてくれる。素晴らしい。また、提供された料理は完全に主人のものだ。そのまま美味しく召し上がるのはもちろん、調味料で好きに味を変えたり、別の料理と組み合わせてオリジナルのコース料理にしたりするのも自由だ。あるいは出された料理をそのまま別の料理の材料にしてしまってもいい。それについてシェフは何も文句を言わない。この人はあまり表に我を出さないタイプなのだ。
「その料理って、私が作ったものじゃない?」
そんな風にして主人がシェフに料理を作ってもらう中で、このシェフが作る料理で、彼が過去に食べたものに似たものが生まれてしまうこともあるかもしれない。でもそれ自体は、あくまでシェフの創作物であり、元の料理そのものではない、ということには注意が必要だ。よく「生成AI反対派」の人たちから「生成AIが作り出すものはただのコピーでオリジナルではない」という意見が挙がるけども、それは「元の作品とそっくりに見えるかもしれないが、それ自体は新しい創作物であり、コピーではない」と言える。自分は実家の餃子が好きなのだけども、たまに自分で作るときはその実家の餃子と近い味になる。しかしながら、私の作った餃子は、母親が作った餃子とは、全く別のものである。それと同じだと思ってほしい。
しかしながら、シェフが作った料理を、別の誰かの料理と偽って提供した場合はもちろん問題となる。例えば、ある有名レストランの看板メニューをひたすらシェフが食べて、そっくりの味を再現できるようになった上で、それを有名レストランの名前やブランドを無断で使って販売するようなことは決して行ってはならない。それは生成AIでも同じで、AIが作り出した作品を、特定の誰かの作品であると偽って世に出すのは法的に問題があるのは間違いない。
とはいえ、「有名レストランの看板メニューをひたすらシェフが食べる」ことはもちろん、「そっくりの味を再現できるようになる」こと自体も何も問題はない。「学ぶ」の語源は「真似ぶ」であると、学生時代の校長先生が言っていたけれども「模倣」という行為自体はクリエイティブな行為だ。この世の創作はすべて、他のなにかを真似ることで生まれている。それは生成AIの生み出す物についても同じことが言えるだろう。だから問題なのは、あくまで「無断で特定の誰かの名義を使うこと」であるというのは理解しなければならない。
「やっちゃいけないこと」ってなんなんだ!
だが一方で、たとえ「有名レストランの料理だ」と偽らなくても、それで全てが許されるわけではないという点にも注意が必要だろう。そっくりの料理を作ってその名声に便乗しようとする行為には、やはりモラルの問題がある。例えば、人気のあるレストランのメニューを自分の店で再現して提供したとしよう。その料理がオリジナルよりも質が低かった場合、顧客はそれを元のレストランと結びつけ、その評判に悪影響を与えるかもしれない。これが続くと、オリジナルのブランド価値は下がり、元のクリエイターや店舗に経済的な損失が生じる可能性がある。
また、たとえ質が同じかそれ以上だったとしても、よく似た料理が大量に出回れば、オリジナルの独自性やブランドが薄れてしまうだろう。消費者が混乱し、オリジナルとコピーが区別できなくなることも考えられる。著作権侵害と認められるためには、「依拠性」(どれだけ元の作品に依存しているか)と「類似性」(元の作品にどれだけ似ているか)の両方が必要だが、この点を軽視して「模倣は問題ない」と思い込むのは危険だ。「生成AI推進派」の中にも、このあたりの誤解を抱いている人が多い印象を受ける。シェフが作る料理全てが「盗作」というのは誤解だが、だからといって何も問題がないわけではない。生成AIで作られた作品が、意図せずとも他者の権利を侵害する可能性がある以上、その使用には慎重であるべきだ。
生成AIで他者のコンテンツの模倣を意図して行うことは当然問題だが、たとえ意図的でなくても、生成されたものが他者の権利を侵害しているかは常に気をつけなければならない。シェフに自由に料理を作らせるだけでは期待通りの料理が出てくるとは限らないのと同様に、AIが生成するものも必ずしも完璧ではないことを理解すべきだろう。こうした問題は現行法でも解決できる部分はあるが、依拠性や類似性の認定にはまだ曖昧さが残る。そのため、生成AIの利用に対して独自のルールや法規制が必要になる場面も出てくるかもしれない。
生成AIユーザーはクリエイティブ?
シェフは料理を作り提供するだけの存在で、どんな料理作るか、その料理で何をするかは全て主人——、ユーザーに委ねられている。そういった意味合いで「生成AIユーザーはクリエイターではない」という意見も出てきているようで、確かにそれには議論があるだろうだと思う。ただ、私個人の意見をいうならば、どんな材料を使い、どういう味付けをし、どのくらいの焼き加減にし、どんな盛り付け方をするか、それを注文すること自体はかなりクリエイティブな行為だと感じる。例えば、カードゲーム好きのサンドイッチ伯爵が、プレイ中にも食事ができるようにパンと具材を挟んだ料理を作らせたのがサンドイッチの始まりだという話がある。サンドイッチ伯爵は料理人ではないが、これも立派なクリエイティブのひとつだと言えるだろう。生成AIが作るものは全て創作性に溢れているとまでは言わないが、多かれ少なかれそこにはユーザーのクリエイティビティが入っていると私は思う。だからこそ、生成AIユーザーは、生成AIが作ったものについてしっかりと責任を持つべきであるとも言えるだろう。
「生成AI」のある世の中で、私たちはどう生きるか
「生成AI反対派」の人たちから見られる「盗作ツール」という誤解は、生成AIが何かを無断で奪っているかのような印象を与えてしまっている。しかし、生成AIはこれまでに説明した通り、技術的にそういうものではないし、その特性を知らずに批判するのは危うさを感じる。もちろん、悪用される可能性は存在するが、それはどんな技術にも共通する問題だ。だからこそ、技術自体を規制するよりも、どう正しく使うか、どう適切に管理するかに焦点を当てた議論が必要だと私は思う。生成AI自体はクリエイティブなツールなので、これを利用して新たな価値を持つコンテンツはどんどん生まれていくだろう。もちろん、個人の考え方もあるので強制するものではないが、既存のクリエイターの方は一度でも触ってみて自分の制作に役立てる方法を考えてみると、これまでの制作では見えてこなかった新しい創作へのヒントが見つかるのではないかと私は思う。
また、「生成AI推進派」の人たちも、生成AIを使って自分で「創作」をしているというのを忘れてはいけないと感じる。どういうコンテンツを作るかのアイディアを考えること、それ自体はクリエティブな活動だ。しかしながら、出されたものに対して、何も批評せず、何も付け加えず、何も改良しないというのはクリエイターのすることではないだろうと、私は思う。創作というのはまだ見たことのないものを見ようと常に前進していく行為だ。それを忘れてしまったら、生成AIが人間の文化を衰退させることにもなりうるだろう。クリエイターであるからこそ、コンテンツを生み出しそれを世に発表することの重みは常に意識しなければならない。
結局のところ、生成AIはあくまで私たちが使いこなすためのツールにすぎない。ツールそのものに悪意はなく、どう使うかはすべて私たち次第だ。料理人が良い食材を選び、レシピを工夫して素晴らしい料理を作るように、生成AIも私たちの意図次第でその力を発揮する。
このNoteを読んでくれた人が、少しでも生成AIについて正しく理解し、自分なりに考えるきっかけになれば嬉しい。そして、ぜひ生成AIを一度試してみて色々な可能性を広げてみてほしい。Twitterではこれからも「やいのやいの合戦」が続くかもしれないが、その議論の中でもう少しだけでも生成AIのこれからについて、生成AIをどんな風に使っていき、どんな風には使わないか、生成AIが生まれてしまった世の人間として私達は考えていく必要があるだろう。
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