東北旅記 3,12〜ぼくがここへ来た理由
ご無沙汰になりました。まみやです。
これは、ぼくが就職を間近に控えた大学4年の最後の春休みに東北を巡った旅行記なるもの。
世間はコロナ一色で、ぼくは多くのモヤモヤを抱える毎日。
そんな憂鬱な日々から逃げ出すために東北の各地を訪れ
今、ここで”見たもの” ”感じたこと” ”考えたこと” ”受け取ったこと”
をみらいの為に書き記しておくものです。
3,11@仙台~日常を続けたあの日から
3,12@女川・石巻~ぼくがここへ来た理由
「旅人」
だなんてかっこいいものではない。
周りには世界一周をした友人もいれば、
ヒッチハイクでほぼ本州を横断した友人もいる。
彼らに比べれば、ぼくは大した旅はしていない。
けれど何かある度に旅に出て、出来るだけ観光だけじゃ感じられない、その土地の生活を味わおうとしてみる。
例えば観光ホテルではなく、地域の民宿に泊まったり、地元の人が通う食事処に入ってみたり。その多くは学生故の経済的な理由も含まれているのだが…。
そうすることでその土地の生活とか、雰囲気、リズムみたいなのを感じられる。
未知らぬ土地での生活を
東北旅2日目。
東北での日々が始まった。
実は今回、帰る日を決めておらず気が済むまで旅をしようと考えていた。
そんな自由気ままな旅人の朝は案外早い。
6時起きからの朝風呂。
上がってから簡単におにぎりで朝食を済ませる。
この日は石巻と女川へ向かう。
前夜に電車の時間を調べておいて、10時過ぎに仙台駅を出発する電車に乗ろうと決めていた。
部屋に帰ってのんびりしていると、時間は早急に過ぎていく。
気付くと10時前。ホテルから駅へと10分ほど。慌てて部屋を出た。
次の電車は1時間後。背中にリュックの重さを感じながら、着込んだ肌に汗が湧き出てくるのも構わずに、それでも走る。
ホームに着くと、10分の遅延。
走った労力を惜しく思うと同時に、安堵して列に並んだ。
車内はほどよく空いていて、地元の人と観光客とが同じように乗っていた。
マスク率は5割ほど。
こんなご時世で東京、大阪、京都へと回った中で明らかに下回る数字。
スッと気持ちいい空気に菌なんてないのだろうと、
暫し平和ボケした思考回路に陥る…。
石巻へは1時間ほど。
その間に今日の宿をスマホで調べる。
石巻はビジネスホテル始め、宿、食事処が充実しているみたい、
女川は数は少ないが、復興の街として駅前が賑わい今時な宿も増えているようだ。
両方見たいな〜。泊まってみたいなー。
と考えていると2つの街の間にゲストハウスを発見した。
ここにしよう!と予約した。
ゲストハウスは高床式みたいなお洒落な建物で(絶対、表現間違っている)
何よりレンタサイクルがあるというから、自転車に乗って石巻も女川も行ってしまおうという作戦に出た。
結局この日、日が沈むまで錆びれたママチャリを約50キロ漕ぎまくることになるのだが…。
↑矢印この日泊まったゲストハウス Active Life -YADO-
道の途中で
まずは女川を目指して東へ進む。
自転車を走らせるとすぐに、湾沿いに出て横目に太平洋をのぞかせる。
爽快なはずのサイクリングは、3月になっても肌寒い東北の厳しい浜風と、漕いでも漕いでも進まない錆びれたママチャリによって
ぼくは、競輪選手並みの必死の形相でペダルを漕ぎ続けた。
2トントラックが躊躇なくぼくを追い越して行く。
北へと進む多くのトラックに復興の片鱗を感じるようで、少し誇らしげになったりするけど
その風によろめき少々怖がりながら、終始女川を目指す。
対向車の乗車席から、やたらと目線を感じる。
車社会の中、ママチャリを必死に漕ぐ若者は物珍しいのだろう。
自転車を止めて、簡単な港を歩いてみる。
いくら冬風が厳しくとも、海はいいもんだと眺める。
牡蠣の養殖らしき浮きが海に浮かんで、海面を日が照らして輝いている。
今のところ、震災の痕跡はどこにも見当たらない。
あと1ヶ月も経てば春風に代わり、
風が心地良く、景色は一層鮮やかさを増すのだろう。
それはそれは、最高なのだろうなんて考えてみる。
ぼくの1ヶ月後は、まるで違った景色になっているのだろうな…。
なんて5キロほどの地点で座って考え事を始める。
ここらで少し、ぼくが今回の東北旅を決行した理由の1つについて記しておこうと思う。
ぼくが旅に出た理由
「この半年間抱え続けた不安から解放されるため」
言語化すると、こうなるかな。
半年間、様々な要因に不安やモヤモヤを抱く日々を送っていた。
例えば就職。
選択した就職先に自分の進む道が本当にこれであっているのだろうか。
これが本当にしたいことだろうか。
ある意味、それらと向き合う余裕と時間ができて、今一度向き合ってみると、ふつふつと不安ばかりが募っていった。
他にも人間関係。
不安は不安を助長させて、何が根本的な問題か分からずに、一つ一つ解決していかなかったツケが更なる不安を積み重ねた。
その挙句、ぼくは言葉を失っていた。
文字通りに言葉を失う。
様々な感情の起伏を言語化すること、
それは余裕があって成り立つことなのだと。
何かを考えたり、言葉にしたり、そんな余裕が無くなった。
そんな日々と不安から、ぼくは逃げ出すように日常を飛び出した。
そんな日常を少し振り返る。
加えて、春から新しい生活が始まる。
「このままではいけない」
東北という場所が何かの“きっかけ”を“答え”をくれるかもしれない。
ぼくは、それを求めてこの土地へ来たのだった。
再び錆びれた自転車をまたぐ。
更に東を(再び5キロほど)目指すのだった。
女川の街は、ぼくの好きな劇作家ロロの三浦直之さんの出身地でもある。
そんなこともあって簡単に下調べをして行った。
女川の街へと近づくと、前情報通りに団地が増えていった。
この道をきっと三浦さんも歩いたのだろう
もしかすると同じように石巻まで自転車を漕いだかもしれない
なんて考えていると、少しは足が軽くなったように思えてくる。
復興という名の街
女川駅へようやく到着。
ゲストハウスから約1時間。
女川の駅はそれは立派な建物で、駅前の商店街も木調で統一された近未来的な雰囲気さえ感じる。
これが復興を遂げた女川の街なのだと言われれば感心する人が多いのかもしれない。けれど
ぼくが感じたのは違和感だった。
ー前置きとしてー
本当に他県から来た一大学生がこのように苦言めいたことを言うことに、
自分でも心苦しさを感じつつ、しかし
“感じたこと”をなるべくありのまま書いておこうと思います。
もちろん現場での復興の努力と人々に最大の敬意を払いながら。
ぼくが感じた違和感は
「そこに人々の生活を感じなかったこと」
街の形も関係している。
女川は再開発にあたり「スマートシティ」のモデルが用いられた。
それは女川駅を中心とした、エリア分配という計画的な街づくり。
駅前には、商店街・銭湯・飲食店といった商業エリアが並び、
駅から商業エリアを超えたところに海が広がって
海には多くの船が並び、市場がある。海岸には港エリア。
駅から山側に少し登ると、役場・病院・学校と公共エリア。
更に登ったところに新築の家が多く並ぶ、住宅エリアが存在する。
段々と登って行く女川の街は、どこからでも海が見渡せる。
その地形はまさしく震災後の再開発の一環として「盛り土」と呼ばれる
津波対策の街づくりが生み出したものだった。
その結果として「商業エリア」を主にブラついたぼくは
「人々の生活」なるものを感じなかった部分もあると思う。
きっと、それだけでない。
駅前に広げられた商業施設には観光客の姿が目立つ。
駅には綺麗な街並みをバックに映るアイドルのポスターが貼られていた。
そこにある景色を
「作られた復興」
だと思った。
外向けに作られた、観光客へ向けられた
「復興出来ました」
というメッセージに思えて、
そこに、どれだけ地域の人々の想いが寄り添っているのか見えなかったし、
だからこそ、地域の人の声を想いを知りたいと思った。
本当に身勝手な事を書いています。
これを読み、傷つけてしまう人がいるかもしれません。
傷つけたいという意思は全くありません。
また、反論をする人、傷ついたという方の想いも尊重したいとも思います。ただ、それらを恐れ書かない事をしない事は許していただけると幸いです。
知らない。ということ
あまりにも綺麗に整理された街で、
人々は「かつての街の生活」を取り戻せたのだろうか。
本当に身勝手にも、そんなことを考えながら街を歩く。
そうして、ぼくは自らの欠陥に気付く。
「かつての街の生活」をぼくは「知らない」ということ。
あの日から街はどのように変わったのだろう。
あの日から人々の生活はどのように変わったのだろう。
あの日から人々の想いはどのように変わったのだろう。
それらを、ぼくは知り得ないということ。
あの日の前を知らなければ、取り戻すことも
取り戻す「何か」を知り得ないということ。
そもそも外の者が「復興出来たかどうか」なんて判断するものじゃないだろう。
けれどなるべく「当事者」でありたいと願った自分にとって
それは、永遠に「第三者」たる事を突きつけられたようなものだった。
加えて「知らなかったこと」に気付く
ぼくが訪れた3月11日。
この時に東北を訪れることに意味があるだろうと勝手に思い込んでいた。
けれど、その日は多くの人にとって悲しみの中にある日なのだと。
多くの人の命日であり、メディアが現状を伝える、その時も
現地の家ではお香が焚かれている。
そんなことも、ぼくは知らずに、この土地を訪れたのだと恥ずかしくなったのだった。
そんな後ろめたさを残して女川を後にする。
帰り道。
スーパーマーケットに人集りが出来ていた。
後に聞けば、街唯一のスーパーの9年ぶりとなる営業の再開日だったという。
そこには、確かに「人々の生活」があったのだと思う。
再び10キロ先のゲストハウスへ。
超えては更に10キロ先の石巻へ。
時は14時を超え、風が一段と冷たくなっていた。
向かい風でいくら漕いでも前に進まず、それでも前へと漕ぎ続ける。
「何でこんな頑張ってるんだろうな〜」なんて思ったりもする。
途中、道端に鳥居が見えて自転車を止める。
鳥居の先に山を登る道が続く。
「山を少し登って景色でも眺めようかと」歩を進める。
「この場所に避難した人もいたかもしれない」
「この場所から津波は、この街はどのように見えたんだろう」
そんなことを考えていた。
街の至る所には津波の高さを物語る痕跡が残されていた。
石巻へ訪れる。
街を一通り回って、傾いて伸びていく影に焦り、さっと帰路につく。
2日後、再び石巻を訪れることを、ぼくは未だ知らない。
再び10キロかけてゲストハウスへ。
これで10キロ×4セット
え?まだ10キロあるやん?
帰り道はスイスイだった。
追い風が背中を押してくれた。
そうして、4時半頃、案外早くにゲストハウスへ到着。
本を読んでゆっくりしようかとも思ったが、せっかくだと
もう少し自転車を漕ぐことにした。
復興という名の壁
海岸へ。
やっぱり海は好きだなー。
ずっと琵琶湖という湖を近くに育ったからなのか、
水の存在と波の音がぼくを安心させる。
けれど、海は少し怖い。
湖と違って、対岸が見えない。底が見えない。
その果てしなさが時折、寂しさと不安になる。
と、海岸へと自転車を走らせる。
Googleマップによるとゲストハウスから歩いても10分ほど。
常に感じていた浜風が、海の近さを感じさせてくれていた。
しかし、そこにあるはずの海が見えない。
波の音も、浜風も、そこにあるはずの海が見えてこない。
そこにあったのは、大きな壁。
防波堤だった。
ニュースなどで防波堤が作られている様子は知っていたが、
2キロほどの長さと、海との断絶が衝撃的だった。
ぼくは防波堤を上がる。
夕暮れ時、西の彼方に太陽が沈んでいく。
その手前には工場から出る煙が見える。
工業が栄えた石巻の街。
そこでは人の労働と生活が取り戻されている。
その向こうにある福島の原発。
きっと煙を立てることもなく、ただただずんでいるのだろう。
沈んでいく夕日に向かって歩き出す。
防波堤という大きな壁と、
復興を目指し整理された街
どちらも「あの日から」作られたもの。
復興は何なんだろうと考える。
「新しい生活を送ること」
「かつてあったものを取り戻すこと」
「住む人の生活が安心の中で生まれ変わること」
ぼくには分からなかった。
きっと分かりえないこと。
沈みゆく日が照らす浜辺に、親子の姿が見える。
地元の人か分からない。
行き来する波を楽しむ子供の笑い声。
「あの日」の前は、どんな景色だったのだろう。
どれだけの人が浜辺を訪れていたのだろう。
こんな風景も今は壁の向こう側にある。
ぼくは「知らないこと」を考え続けていた。
日が暮れてゲストハウスへ戻る。
ゆっくりと本を読むことにした。
ぼくが再び東北に想いを巡らせることとなった本、
ぼくを東北へと連れてきた本。
『あわいゆくころ』
本の中には、「あの日から」の日々が描かれている。
ぼくの「知らないこと」を想像の中で教えてくれる。
どれだけわかることができるのだろうか、
知らないこと、分かり得ないことが多すぎて
いつまでたっても、ぼくは「第三者」にしかなりえない。
やっぱり「知らないこと」の中で、今日も眠りにつく。
ゲストハウスのフリースペースが最高に心地いい。
確かなことは、ぼくはこの土地が好きなことです。
まみや