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自分への「いいね」はいつだって自分から
今年、ぼくのなかで1つ、変わったなと思うことがある。
それはSNSで自分の発信にいいねがつけられるようになったことだ。
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もともと、自分で自分の投稿にいいねすることには、強く抵抗があった。
たとえばXでは、今は誰がいいねを押したのか見えなくなっているが、たいていのSNSはいいねの数もそれを押した人も可視化される。
だからこそ(いいねの数を多く見せようとしている!みっともない!)と、誰かに思われるんじゃないかと、それは恥ずかしいことだと、感じていた。
でもそれは――今、ぼくは「誰かに」という言葉で逃げようとしたけれど――結局のところ、紛れもなく「自分自身が」恥ずかしいことだと決めつけていただけなのだ。
思い返してみれば、他の人が自分の投稿にいいねしているのを見かけたとき、ぼくは「間違えたのかな?」とか「あらら、自分で押しちゃってるやん」とか、そんなふうに思っていた。それって結局、ぼく自身が恥ずかしいと感じていたからだと思う。
そんな思考回路が馬鹿馬鹿しく感じてしまって、今では自分で真っ先にいいねを押すようになった。最近のnoteの「いいね1番乗り!」は自分だ。
自分の投稿にいいねするのは気持ちいい。今では、なぜそれまでしていなかったのだろうと思うくらい。まずは自分でいいねをしてあげないと、それってなんだか可哀想じゃないか。
子どもが親に認めてもらえなかったり、褒めてもらえなかったりすると、どれだけさみしい思いをするか。そんなこと、想像するまでもない。だから、親は、惜しみなく子どもにいいねを送る。
とくに「見て見て!」とアピールしてくるときなんかはもう、いいねのバーゲンセールかのようにハートマーク連打だ。それくらい、いいねという愛情表現は出し惜しみするもんじゃない。
ならば、自分にも気軽にいいねしてあげよう。そう考えるようになった。だって心は、大人も子どもと同じだから。
見てほしい、聞いてほしい、という欲望はきっと誰もが生まれながらに持っている。そんな欲望には惜しみなくいいねを送ってあげよう。減るもんじゃなし。安売り大歓迎でかまわない。だってぼくたちは自分の心の親みたいなものだから。
皆さんもぜひ、自分のnoteにいいねつけてみてくださいね。せっかくがんばって書いたんだもん、ちゃんと褒めてあげなくっちゃ。
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