Civictechで社会を変える。実際に市民活動から台湾デジタル大臣になったオードリーさんとCode for Japan代表・関の対談インタビュー(前編)
Code for JapanとPnikaコラボイベント
Code for Japanも参画しているCode for All(アメリカのCode for Americaから始まり、世界中に広がる「Code for」コミュニティ)の仲間であるg0v(台湾版Code for)との繋がりから、2016年に35歳の若さで台湾の行政院に入閣し、デジタル大臣として活躍する唐鳳(Audery Tang:オードリータン)さん、メンバーの子魚(Lisa ky)さんらを招き、Pnikaと共同開催でシビックテックに関するワークショップイベントを行いました。
唐鳳さん(以下、オードリーさん)とは?
ハッカーとして小学生の頃からプログラミングに携わり、BenQ(ベンキュー)やAppleの顧問などを務め、プログラミング言語(Perl6)の開発にも大きな役割を果たし、台湾のひまわり学生運動でその実力をシビックテック(市民主導のテクノロジーを活用した行政サービス・社会課題への取り組み・活動)に活かし、現在は政府側のデジタル大臣として活躍されています。
▼g0vサミットでの登壇時の話はこちら
オードリーさん×関治之(Code for Japan代表)対談
関:エンジニアとして、Perlコントリビューターのオードリーさんをゲストにお迎えできることがとても光栄です。現在、オードリーさんはデジタル大臣としてご活躍されていますが、そもそものきっかけはどういった形だったんですか?
鳳さん:私の親は両方ともジャーナリストです。彼らは台湾の戒厳令時代に民主化、環境保護、そして台湾における他の多くの社会課題に取り組むために活動していました。私が生まれた頃はまだ戒厳令が敷かれており、6歳になった頃、戒厳令は解除され、台湾は報道の自由や集会の自由などを得られるようになりました。
鳳さん:大統領選挙は'96年で、World Wide Web(インターネット)が本当の意味で普及し始めた頃のことです。台湾の市民社会が多くの団体で自由に実験できる期間が約10年ありました。戒厳令解除は大統領選挙の前なので、民主的装置はまだ完全に形成されていませんし、人々は政府を信頼していません。我々はこの戒厳令解除から大統領選挙までの時代を「市民社会構築の10年」と呼んでいます。
鳳さん:このような歴史的背景があり、私達は今この領域に携わっています。例えば、今回のイベントで実施したワークショップに参加しているg0vコミュニティのメンバーの1人が、Homemakers Union財団の長です。 Homemakers Unionは、もともと環境を大切にし、環境についてのメッセージを広めたいと思う主婦達の集まりです。私の母も共同創設者の一人でしたし、当時私は5歳くらいでした。
鳳さん:設立後、彼女達は協同組合を組織することによって、「有機または環境に優しい生産方法を用いており、かつそれを基地と説明している農産物」だけを買うことによってそれを共同行動に変えました。当時は許可されていなかったので、大統領に立候補することも立法者に立候補することもありません。にも関わらず、この種の草の根市民社会は政治的行動でした。
関:なるほど。
鳳さん:このような議会を通じて、私たちは多くの改革を呼びかけました。今の事例では環境について話しましたが、教育改革は私たちが変革を願うことに成功したもう一つのものです。台湾は非常にトップダウンの権威主義的教育システムを持っていました。それから私達が変えていった結果、人々は大学のためにそれほど激しく競争する必要がなくなりました。子ども達は自分たちの興味関心を発展させながら学ぶことができるようになっています。
鳳さん:これらはすべて私たちが社会運動と呼ぶものですが、持続可能な社会運動のモデルです。私は10歳の頃から嘆願書を書き、抗議活動に行き、こういった活動に参加していました。これらは私の幼年期の一部です。
蔡さん(翻訳者):子どもの頃から、社会運動、問題、そして話題に興味を持っていたんですか?
鳳さん:先程、社会運動の話で、私が10歳以下の時だと述べました。私が10歳になるまでの間に、父は天安門広場での大規模な抗議行動における社会運動の動態を探るために博士論文という手段を選びました。彼はジャーナリストなので、抗議行動が最高潮に達した1989年の5月と6月に北京を訪問しました。彼はたくさんの巻頭論文を書いたんです。
鳳さん:当時は非常に緊迫した時期でした。彼は6月1日に台湾に戻ったと思いますが、そうでなければ私の父親は命を失う危険性があったくらいです。
鳳さん:これらの行動は、彼に学生運動指導者たちとの強い繋がりを生み、そして興味を持たせました。彼らの多くはヨーロッパへ亡命しており、父もまた彼らを追い、ドイツのザールランドで博士論文を書き始めました。父が博士課程に携わっていた1年間、私もドイツに引っ越しました。
鳳さん:もう中国に戻ることができない状態になった人々の間で過ごしたことを覚えています。彼らは民主化に取り組み、中国政府を民主化する方法を議論し続けていました。テクノロジーが人と人とのつながりをどのように形作ることができるかということを最初に聞いた場でもあったので、それは私の人生においても重要な部分だったと言えます。
鳳さん:また、それはカラーカメラ、デジタルカメラ、ファックス機などの初期の発展があった時代でもありました。それは天安門だけでなくベルリンの壁崩壊、そしてその後の台湾での野百合学生運動(三月学生運動)にも本当に役立ちました。
鳳さん:5〜7歳のときに経験した初期の市民活動でも技術が役立ちましたが、現代においては、テクノロジーを以て瞬間的に大量の人々が互いに繋がることは容易で、どんなに遠くだったとしても、何が起こっているのかを知り、注意を向けることができるという環境も整っています。これは、近くに住む人々とのみ集団的な行動を取ることができた古いモデルとは大きく異なります。
鳳さん:今日、私たちは接続された社会の中で多くの都市と連動しながら集団的行動をとることができます。このインターネットがもたらした機会が私の2回目の社会運動への接触でした。私が12歳の時、インターネットの世界に入り込みました。それは'93年でした。'94年には、グラフィックブラウザが始まりました。私は全ての関心事・学びたいことはオンラインを介して人から学べることを学校の先生に伝えました。そして'95年には高校を辞めたんです。先生全員が私の判断に対して同意してくれていました。
関:なんと。(笑)
鳳さん:彼らはその通りだと言いました。「あなたはここで10年間も勉強する必要はないし、今すぐに研究者として海外の研究室に入るために連絡すべきです。」と。彼らの多くは、私たちがブルーリボンと呼んでいるものに抗議していました。
関:ブルーリボン…というと?
鳳さん:第42代大統領クリントンによる若い人々を保護する法律に抗議する動きです。投稿やコメントなど、ユーザーが作成したすべてのコンテンツに未成年に適さない素材が含まれている可能性が場合は、未成年者ブロックを義務付けています。違憲と判断されましたが、その間、私が訪れたすべてのWebサイトは黒の背景に変わり、インターネットの自由な言論を保護するために青いリボンが貼られました。
鳳さん:World Wide Web(インターネット)は単なる集団的な学習や行動のためのツールではないことを学びましたが、それは何かが間違っていて何かを修正する必要があることをすぐに知らせたり変えようとしたりするためのツールにもなり得る。これは私が高校をやめてスタートアップを始めたときに経験した、社会運動との接続です。
関:インターネットの存在が大きかったのですね。それを通じて一人一人の意見を集めることができるようになり、それがその後のきっかけになったと。最初に立ち上げた会社はどのような会社だったのですか?
鳳さん:私が参加したとき、それはThe Informationistと呼ばれる出版会社でした。私はプログラミング言語の学習、Webページの作成などの経験を共有するために著者として参加しました。それはeコマース時代の始まりでした。私は会社のためにeコマースのウェブサイトを構築するのを手伝ったんです。'95年当時で考えるとかなりの早期段階でした。
鳳さん:それから、私たちが話していることをソフトウェアの形式に載せて人々に見せることができれば、かなり面白いということがわかりました。
また、私が個人的に使用したツールをシェアしました。これは、コンピュータ自身のファイルと5つまたは10つの検索エンジンの両方を同時に検索できるメタ検索エンジンと呼ばれるものです。Fusion Searchと呼ばれており、当時のComputech Taiwanで最も売れ行きの良い製品の1つになりました。
私の共著者は、私たちが出版会社からソフトウェア会社に切り替えるのは良いことだと考えました。私はInforianと呼ばれる新しいソフトウェア会社の共同創設者でした。情報発信者というよりは出版社でした。私たちはいろいろなことに取り組み、台湾で最初のC2Cオークションサイト、CoolBidを開発しました。
その後、最初のコミュニティウェブサイト(今日では、それをソーシャルメディアと呼びますが)に取り組み、また私たち自身の検索エンジン製品も開発します。 私がInforianを去った後、g0v運動の主要人物の1人である@clkaoもInforianに参画し、最初のインスタントメッセージプラットフォームの1つであるCICQなどを開発しました。ドットコムバブルの間は、非常に人気があり、Intelなどから多くの投資を得ており、初期のソフトウェアスタートアップでした。
関:アントレプレナーとして成功してきたわけですね。私もスタートアップの世界で活動していました。一般的に言って、利益を追求しなくてはならないスタートアップと、社会課題を解決する活動というのが一致しないこともあるかと思うのですが、企業の活動と、社会活動家としての自分との間の矛盾を感じることなどはありませんでしたか?
鳳さん:はい。私の最初のスタートアップでは、Perl言語を使用しましたが、他に選択肢はありませんでした。まだ早かった。(笑)
関:確かに、そんな時代ですね。
鳳さん:'94年には、他の選択肢はありません。… Rubyは勿論ありませんでした。(笑)
鳳さん:私はフルタイムではなく趣味として、Perlコミュニティに参加しました。私たちは、台北のPerl Mongersを始めました。これは、Perlコミュニティのミートアップグループで、本や資料などを翻訳したものです。
鳳さん:本当に世界が変わったと感じたのは、'97-98年にシリコンバレーを訪れたときでした。それは、(商業的なソフトウェアエンジニアにはあまり有名ではありませんが)フリーソフトウェア運動と呼ばれる社会運動があったからです。
(後編に続く)
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