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END展に行ってきた

きっかけは武蔵小杉駅のホームへ上がるエスカレーターで広告ポスターを見つけたこと。

目力の強い人面フクロウのような生物が描かれたポスターに思わず目を奪われた。
『マンガから始まる、大切な人と対話がしたくなる展覧会』との説明と左上に大きくEND展と書かれたポスターだった。

スマホですぐに検索をした。
様々なマンガのシーンと共に死生観を問う展示のようだった。面白そうだなと軽い気持ちで予約した。

展示会場に入ると薄暗い空間の中、天井から展示物が吊るされていたり大きいモニターが設置してあったりタブレットでマンガが映し出されていた。

受付が終わりスタート地点から進んでいく。
様々な死に関する質問と共にその質問に関連づけられたマンガの1コマが大きいパネルで添えられていた。宝石の国やゴールデンカムイ、大奥など知っているマンガもたくさんあった。

死に関する質問がたくさんあってその質問に対する返答の円グラフを見ながら1問ずつ進んでいく形式だった。

生まれ変わりたいか?死後に何かを持っていけるなら何がいいか?お葬式は必要か?などの質問に対していろいろな回答があって読みながら共感や新しい
発見があった。

中にはアンケート形式をとっているものもあり、生まれ変わっても自分になりたいか?の質問に対してYESorNOと書かれた透明の筒と乾燥されたエンドウ豆がたくさん置かれていた。自分の思う方の筒にエンドウ豆を入れていくものだった。
NOの筒の中に入っているエンドウ豆の方が多かった。

さらに進んでいくと死者にVR上で会えるなら会いたいか?や愛犬の死を様々なものに変換する方法など少し踏み込んだ内容のものが出てきた。

VRで死者に会う方法は実際に韓国で行われたらしくそのインタビュー記事やシュミレーション動画が大きなモニターに写されていた。なんだか胸が痛くなった。

愛犬の死を様々なものに変換する展示は
『自分の愛する存在の遺体を食べられますか』と問いかけられ、亡くなった愛犬を土・煙・灰・熱・作物・情報などに変換する内容が細かく解説されていた。
どこまでが倫理観や精神的なつながりとして許せるか、受け入れられるかを問いかけてくる内容だった。チェンソーマンを思い出した。わたしだったら死んだあと好きな人に食べられたいなと思った。

展示されているマンガのセリフでいいなと心に響いたものが2つあった。

1つ目は
『人は2度死ぬ まず自己の死 そしてのち 
友人に忘れ去られることの死』(トーマの心臓)
これって本当にそうだなと思うし、わたしが撮ってもらった写真をSNSに流している理由はこのためなんだろうなと。わたしがいなくなってもSNSの海にわたしの写真が流されて、写っているのが誰なのかわからなくてもそういう人がいたんだってただ思って欲しかったんだよね。

2つ目は
『でも生きているわたしはどんなにくだらないことでも悩む権利があった。』(違国日記)

権利って言葉は特別な気持ちになる。
細かいことまで悩んでこんなに生きづらい性格は損なのかもと思う自分を優しく肯定してくれているみたいで、悩むことが生きてることとイコールだって思わせてくれてるみたいで嬉しくなった。

幼い頃はただ当たり前にくる毎日が楽しかったんだけど、しっかり自我が芽生え始めてからは悩みが尽きないことに戸惑って毎晩1日の終わりにお風呂に入るタイミングで今日はこの悩みが解決したけどまた違う悩みができたなぁと考えてたのを思い出した。
お母さんに何気なく人って生きてる限りずっと悩むものなの?とか、これみんな思うことなの?とか聞いてたの今考えるとこの頃から生について無意識に考えてたのかもしれない。 

展示後半になるとこれから亡くなる人や亡くなった人に対する第三者の視点にだんだん切り替わっていく質問内容が多く投げかけられていった。

葬儀場や遺体安置所など死を想起する場所は移住空間と分けるべきでしょうか?という質問。

常々死ぬことを考えない方がいいとする傾向に嫌悪感を抱いているわたしですが、これはやっぱり分けるべきだと思ってしまった。矛盾。

なんででしょうね。同じ皮と肉と骨、生きてる人と死んでる人の違いって呼吸してるかしてないかの違いな気がしますがやっぱり安置や火葬という工程が作業的に感じてしまって人間から有機物になってしまったという認識が、生きてる側からしたらそれを悲しく思ってしまうのだろうか。

最後は暗闇のブースがあった。
中には数台のスマートホンが光りながら文字を写していた。よく見ると、書かれていた内容は遺書だっ
た。カチカチと操作音が流れる中無言で大勢の人が数台のスマホを見つめる異様な光景だった。

『10分遺言』

10分後に死ぬという想定で10分間スマホで遺言が書かれていく模様が映し出されていく。

誰が誰に宛てて書いたのか、書いてる人の生涯の出来事や何をしてる時が楽しかったのか、何が悔いだったのかが全て伝わってくる。
打つスピードもライブ形式だから文章を打っている最中に急に止まって打つことに詰まっている様子も、打った文章を消して打ち直すのもリアルタイムで伝わってくる。

情報量が多すぎて泣きそうになってしまったのですぐにブースを出た。この悲しいとか辛いという気持ちが生を真正面から見た時の力なのかもしれない。

ブースを出てすぐの場所に10分遺言を投稿できる案内もあったけど、わたしにはまだ書くのが怖くて書けなかった。


死について考えることは嫌煙されがちだがむしろ私は生きることに真剣だったら死について考えるのが自然なんじゃないかなと思う。

END展はセンシティブな死についてのテーマを扱っていたこと、それによってあまり明るみに出すべきではないとされる死について身近な人と話すきっかけになる展示であったことがとても素晴らしいなと思った。

必ず平等に来る死を恐れる者、通り過ぎる過程だと考える者、卒業だと清々しく思う者。たくさんの考えに触れられてこれからの人生の糧になりました。

素晴らしい展示をありがとうございました。

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