私にとって対話とは「生きること」と同義
自分を「自己検閲」していた!
私が「対話」ということばを意識するようになったのは、ほんの2年半前、対話を通して自分とつながり、社会とつながるというプログラムに出会ってからだった。それまでも、高校中退したり、海外に移住したり、敢えて未婚で子どもを産んだり、それなりに自分に正直に生きてきたつもりだったし、社会のシステムに流されないで生きることが自分にとって、大切なことだとは感じていた。
「対話の場」は、役割や立場に乗っ取られることなく、人としての自分のことばを真摯に出す場所。プログラムに入り、対話を重ね、人が出したことばや、自分のことばの波紋からのインパクトを味わってみると、まあ、自分が他者との関わりにおいて、だいぶ殻を被っていること、「人からどう思われるか」という「想定」をもとに、自分の挙動を修正していることに気づくようになってきた。毎回、自己検閲しているようなものだ。
対話で行き詰りの「根っこ」と鉢合わせ
それなりに仕事の実績や経験もあるし、それなりにオリジナルな人生を歩んできたつもりでも、なんとなく「生きている実感」が根っこのところで薄い。そして、その原因が、「自分として」「大澤真美として」社会と関わっていないことにあることも薄々わかっていたと思う。常に、日本人であるとか、女性であるとか、母であるとか、会社員であるとか、いろんな想定の範囲内に自分をおさめて、その自分で社会と関わっていた部分がある。それが「対話の場」でも出てしまうのだ。
対話をすることで、何かいつも突破できない行き詰りを感じていた「根っこ」と鉢合わせしてしまった。「ああ、これだったか」。これを見過ごしたら、見なかったことにしたら、また同じパターンの繰り返しだ。それに、このプログラムの仲間の前でできなければ、外ででききはしないだろう。
想定という手袋を脱いで感じる「手応え」
「もう、やるしかない」そんな思いで、対話の場や、それ以外の関わりの中で、自己検閲しない自分の表現を仲間の前で出して行った。するとどうだろう、ポジティブも、ネガティブも、いろんな波紋が返ってくる。でも、対話という「ジャッジしない場」で受ける波紋は、手にとって眺めやすく、それを味わってみると、「自分と他者」さらに引いて見ると「自分と社会」との関わりの「手応え」のようなものを感じるようになった。他者も含めた環境との相互作用の中で、自分が感じたことを表現すると、社会から応答がある。それを受けて、また私が応答する。「自分として」応答する。そこには、確かな関わり合いがあった。
言えば、手が汚れないように手袋をして土を触るのと、素手で土を触ることの違いのようなものだ。「想定」という手袋をしていては、感じられない、土の温度・感触がある。
「対話とは呼吸のようなもの」byヤーコさん
対話之文化まつりには、オープンダイアローグトレーナーでもある精神科医の森川すいめいさんも参加されていた。すいめいさんは、最終日のこの「対話とは」のところで、オープンダイアローグを始められたフィンランドのヤーコさんの言葉を紹介してくれた。「対話とは呼吸のようなもの」というのだ。
その単純なやりとりが、全ての出発点であるのに、私たちは何かを複雑にしすぎている気がする。
私にとって対話とは「生きること」と同義
私は生きている。
生きている限り、環境から影響を受け、それに応答する。
寒ければ着るし、暑ければ脱ぐ。
私が意識しなくても、体も勝手に応答する。
緊張すれば血管が収縮し、空腹になればお腹が鳴る。
美しい景色を見て、心が揺さぶられ、絵に表現すると、また誰かの何かを揺さぶる。
「生きる」ことは、「応答し合う」ことだ。
私は対話をする。
対話の場や、他者の言葉から影響を受け、それに応答する。
黙っていても、言葉に出しても、自分の中で何かが応答する。
その応答が表現となって、また誰かや何かに影響を与える。
そして、また応答が生まれる。
「対話をする」ことは、「応答し合う」ことだ。
生きる=応答し合う=対話する
私にとって対話とは、「生きること」だ。
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