今日、あなたのいのちが突然終わるとしたら、からだはどの方向に向いているか?〜すべてのものとの大冒険〜
先日、友人たちと対話している中で、「いつ人生が終わるかわからないけれど、自分の人生の軌道さえ間違っていなければ、その後が続くだろう。目的地に着けなくても、軌道さえ合っていれば。」という話が出た。
自分の行動の先に、何が待っているか、どこが目的地なのか、終着点なのか、何かを成し遂げるのか、正直わからない。そもそも、自分の思考程度がつくりあげる目的地なんて大したものではなく、そこに向かって歩くなんて、途中で飽きちまう。
じゃあ、どう歩いたらいい。目的地もわからず、どこを歩いているのかもよくわからないのに、人は歩みを進めることができるんだろうか。
できる。目的地がはっきりわからなくても、光や風をうっすら感じることができるから。これまでの過去からの流れを感じ、未来からの風を受ければ、どちらの方向にからだを向ければいいかは、わかる。
でも、歩き続けることはできるだろうか。光が差す方向は、うっすらわかっても、なかなか目的地に着かない。手に届くと思ったら遠ざかる。霧が立ち込めてくる。光が遠すぎて、到底到達できないのではないか、と絶望しやしないか。
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日わたしはリンゴの木を植える」ということばがある。諸説あるらしいが、宗教改革の中心人物であるルターが発したとされる。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ということばがある(ヨハネによる福音書12章24節)。
目をつぶって、思い起こして欲しい。誰とは言わないが、身近な人や、著名人が亡くなったとき、自分を含め、周りの人間が、その意思を継ごうとするのを見たことはなかったか。その人が成し遂げたいを思うことが道半ばで終わったとしても、そのいのちが尽きることで、かえってそのエネルギーが広がったことがなかったか。
だから、希望がある。
成し遂げるのは自分でなくていい。自分が光にさえ顔を向けていれば、たとえ道半ばで倒れても、その先は、自分が思う以上に、全く自分の想像を超える範囲に、自分のエネルギーが伝わっていく。
だから、目的地に到着できないのではないかと不安に思うことはなく、自分の歩みは無駄ではないかと疑うことなく、ただただ、うっすら見える光の方向にからだを向けてさえいればいい。自分のからだ描く方向、軌道が、必ず、跡を残してくれる。自分が思う以上のことが成し遂げられる。
そこに、面白さと、喜びと、希望がある。
この営みは、地球誕生以来、あるいは、宇宙誕生以来続いてきた大冒険だ。自分だけでは到達できない場所に向かって、その軌道を継ぎながら、すべてのものと共に歩んできた大冒険。
さあ、自分のこの肉体だけでは到達できない、自分の想像を超えたワクワクする場所へ!
そのために、わたしは今日もリンゴの木を植え続ける。いつも途上であり、道半ばであることに感謝を込めて。
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