対話は〈いのち〉のドラマか?/「〈いのち〉の自己組織」 X 「ことばの焚き火」
先月、友人との話の中で、生命科学者であり、場の研究をされてきた清水博先生のことを知り、著書「<いのち>の自己組織」を手に取った。読み進めれば、読み進めるほど、自分の活動である対話や自著「ことばの焚き火」とも重なる部分が多いように感じられる。
この本で、清水先生は、多方面での行き詰まりが見られる現代社会において、科学とも宗教とも異なる新しい地の出発点として、<いのち>の活(はたら)き、を提案している。
これを読んだ時、自分が書いたこの感覚とすごく重なる気がした。
そして、清水先生は、生きものが居場所内部においてそれぞれの<いのち>の能動的な活きに従って生きていくことを、「舞台」上で「役者」たちが自己の<いのち>を表現する「<いのち>のドラマ」の即興劇と例えている。この即興劇では、舞台という境界があり、役が被ることのないそれぞれの役者が舞台に<いのち>を与贈(贈与と違い自己の名をつけない)することで、舞台に<いのち>のシナリオが生まれ、逆にそのシナリオによって、役者の<いのち>のドラマが生み出されていく。
居場所は、家庭ということもあるだろうし、会社、コミュニティ、あるいは、地球であったりもする。そして、対話の場もそうであると私は思うのだ。
私がホールド(主催)する対話の場においては、社会的な役割は一旦脇に置き、自分として場に存在し、自分のことばで話すことを願いとして出している。「いつもと違う話し方をしますよ」と境界を引く。ここは舞台だ。
その場において、わたしも、参加者の方も、「こんなこと言ったらバカにされるかな」「空気読まないとな」という自己検閲を封印して、自己を開いてことばを出して行く。これは本当に、信頼と勇気がいることだと思うし、そういう意味では、自分の<いのち>を場に与贈する行為だと思う。
参加者の<いのち>の与贈が進んで行くと、だんだん流れができてくる。ある種のシナリオのようだ。そして、そのシナリオによって、役者(参加者)のドラマがまた生み出されて行くのだ。場がコントロールしているのでも、わたしや参加者がコントロールしているのでもなく、お互いに引き出しあって、即興的に物語が進んで行くのだ。
対話の場は、参加者によって毎回、全く異なった展開をするし、成り行きが読めるものでもない。ルールは少なく、境界線の引き方は、とてもシンプルにしているので、参加者(役者)の振る舞いは、実に多様になってくる。
それでも、参加者1人1人の個性がとても感じられたり、二度と繰り返すことのできない1回性の対話だなと思ったり、本当に必要なことが起こったなあ、あるいは、ああ人間と話したなあという感覚は、いつも変わらない。
私は、前々から、対話の場は、世界の開口部だと思っている。それぞれが、自分とつながったことばで話そうとすることで、ユングのいうところの集合無識のような共通基盤に触れたエネルギーが、その人という管を通って、外に表現されるイメージなのだ。不思議なもので、「絆、絆」と言って、横に手をつなごうとすると息苦しくなることがあるけれど、自分が自分と深く繋がると、結果として、人と深くつながった感覚になる。
また、対話の場には、普段の自分がどうしても滲み出てしまう。だから、対話の場は人生の縮図、あるいは稽古の場だとも思っているが、もしかしたら、<いのち>のドラマを意識的に体感する場所とも言えるかもしれない。それぞれが、どれだけ自分自身であれるか、自分の<いのち>を与贈できるかで、シナリオが、与贈の循環が変わって行くのだから。