学校が法治空間から離れすぎると自力救済が起こる
学校でのいじめに関わる大きな事件が起こる。
いじめを苦にした自殺に関しての報道が多かったが、とうとう中学生による殺人事件が起こってしまった。
いじめが関係する事件が表に出ると、様々な意見がネット上にでてくる。
「いじめ被害を親や学校にいえば死なずに済んだのでは?」
「なにも殺すことはないだろう」
「また、学校や教委は知らなかったで済ますんだろう」
学校は法治空間であったのか?
日本国内にある学校は、日本の法律が適用される…はずである。
今回の殺人事件に関しては「起った殺人事件」に関しては、それに則した処理がされているようだ。
さすがに被害が人の命に及べば当たり前だろう…と思う向きもあるだろう。
だが「いじめ」に関してはどうだろう。
いじめで人は死にうる。いじめ自殺は「殺人」なのである。
大津いじめ自殺事件、そして旭川の事件は、それが「殺人」であることがよくわかる事件である。
そして学校や教委はそれがあったと認めないこともしばしばである。
重大な事件に至らなくても同じである。
「いじめ」がしばしば起こっているのは、ほぼ社会的に共有されているし、不登校に「いじめ回避」が少なからず含まれるのも当たり前の話なのにもかかわらず、学校側がそれを無視するなんてことは日常茶飯事という時代が長く続いている。
被害者の心身を傷つけ、下手すると殺してしまう…いじめ加害が放置されていることは、学校という空間が「法治空間」とは大きくかけ離れている空間であることの証左ではないだろうか。
いじめを見えにくくするマジックワード
学校という空間は、いじめ加害を不可視化するマジックワードに満ち満ちている。
「学校の自治」「生徒の自主性を尊重」「加害者の人権」「教育の場」「社会はもっと厳しい」「いじめられる方にも問題がある」「みんな仲良く」
こういった文言の組み合わせで「加害」が、法規範を大きく超えて正当化されてしまってきた。
学校教員が排除的な動きの誘導をしたり、ロールモデルを示してしまっていることもしばしばある。
その昔、私が経験したいじめも「教員による誘導」が大きかった。
「指導」の名のもとに行われる過度の給食完食強制なども、スケープゴートを作っていいという暗黙のロールモデルになりうる。
学校教員間でもいじめが起こるのである。
身体的暴行こそないものの、どうやら、大学も似たりよったりの模様。
歴史学者の呉座勇一氏のツイッター鍵垢発言に対する英米文学研究者の北村紗衣氏の批判から、なにやら騒動が起こっているようである。
私にはオープンレターの起草者の「気に入らない」を差別だの人権だのの屁理屈で吊し上げて「排除」し、スクールカースト上位を守ろうとしているようにしか見えなかった。
(本気で差別だ誹謗中傷だとかいうなら、内輪の空気に頼らずに法廷にもちこめばいいのに、なんでそれをやらんでオープンレターにしたのだろう?というツッコミはまあ、おいておこう)
いじめは基本「気に入らない」から起こる
いじめは基本「気に入らない」から発生する。
個人間の距離を詰めた状態で、過剰に「仲良し」を強制されたら、当然「気に入らない」は発生する。
距離感や感情をコントロールする力が弱い低年齢での「気に入らない」の発露としての「攻撃」は容赦がない。
だからこそ、学校が、法を大きく超えてそれを許してしまってはいけないのだ。
にもかかわらず、学校は長年、前述のマジックワードによってそれを許し、被害を「不可視化」してきた。
被害者は泣き寝入るしかなく、加害者は「加害の成功体験」を積む。
その結果として「巨大な中学校化する社会」が出現するのは当然なのである。
社会が法治空間ではなくなれば、私刑は多発するし、自力救済としての報復もまた起こるのは必然なのである。
私刑をなくし自力救済としての報復をなくすことで社会の安定化をはかろうとしてきたのが「法治」の流れなのだから、「法治空間」が縮小し「法規範」が縮小すれば当然、逆のことは起こる。
学校を法治空間に、「お気持ち支配」にさよならしよう
いじめを無くすことは、とりもなおさず社会を正常化することにも繋がる。
私刑や自力救済が多い社会に戻りたい人はいないだろう。
やはり、学校を法治空間として扱うことは重要なんじゃないだろうか。
と、同時に、過去に受けた学校教育やメディアの「お気持ち支配」の構造を、合法的に白日のもとに晒していく必要はあろう。
罪を憎んで人を憎まず
である。
おまけ
現代社会では、言語をもちながらも交渉ができない「お気持ちマウンティングの鬼」が多発しているようで面倒だなあ…というのをこの本を読みながら思ったぞと。