「日教組」は終わった問題なのか?
「日教組運問題」は終わっていないの図
ああ、やっとできた。日教組ってなんだったのか?を直観的に理解できるんじゃないか?という図解ができた。
簡単に言ってしまうと、目立つ政治的な運動に隠れて、目立たない教研運動部分が長年跋扈してきて、教員養成課程にも広く根を張っているので、手が付けられないんだわ。
図の黄色背景のパーツはしばしば報道されもするが、左寄りに密集する五角形のパーツ、これについては、殆ど報道されてこなかった。
黄色のパーツが問題になると必ずといってでてくるのが
「そんな先生ばかりではない、組合員であってもほとんどの教師が真面目に日々子どもたちのことを考えて仕事をしている」
といった意見が出てきて、世論が沈静化されてしまう。
この繰り返しであった。
そして、比較的目立たない五角形の部分についてはほぼ野放しだったわけである。
2024年に問題になった奈良教育大付属小学校の問題から日教組教研運動を考える
2024年の1月、奈良教育大付属小不適切授業問題というニュースが世間を賑わせた。そして4月にになって同校のいじめ隠ぺい転校事案が報道された。
奈良教育大学付属小の問題は、目立たない5角形の部分の束のうち「自主編成問題」という、その中では割と大物に紐づいていた。
デモやアピールなど多い派手な運動とは違って、教研運動のほうは、教員養成大学との絡みも強く、教員養成課程のあり方や、教科書、教材類への影響も強く、教員養成課程の学生や、教員サークルを通じてしずかに浸透する傾向がある。
そういう目立たなかった部分がでてきたのが、この「奈良教育大付属小不適切授業問題」だった。
一気に吹き上がって「闘争」に転換し、余計よく見えるようになった。
前掲の図、奈良教区大付属小問題に乗っけるとこういう形となる。
昔の闘争をちょっとひっこめてみると、全く同じ構図だというのがわかりやすい。
そして、学者達もそれに呼応する動きがあり、呼びかけ人らのアクロバット詭弁に賛同しちゃった学者の山ができた。
これは昔ながらの自主カリキュラム正当化ロジックである。
アクロバット引用で学習指導要領の文脈を変えてまでゴリ押しする芸の細かさ(褒めてない)
日教組と全教の組織率が下がって来た昨今において奈良教育大付属小問題を契機に、昔ながらの闘争が飛び出てきて教育学者が雁首揃えて闘争を応援する。
日教組運動の下支えをしていたのが、教員養成大学であり、民間教育団体なんだなということがよくわかるというものではないか。
なお、奈良教育大付属小問題での教育学者のアクロバット詭弁はがっつり解体しておいた。 (こーいうの見慣れちゃうと、オープンレター(北村・呉座騒動)なんか、まだ序の口って気がしてしまう)
根強い自主編成運動
まあ、自主編成問題とそれに絡む偏向問題ってのは、1950年台以降、ときどき表に出てきて、国会で問題になったりもしている。
これも、終わっていない問題だ。
北教組など、まだこうやって表に堂々と掲げている。
国会会議録検索から雑に拾ってきた。
昭和38年の質疑
昭和56年 これは小樽市教組の白カリキュラム問題に係る質疑
昭和60年 同じく小樽の白カリ問題に関する質疑
これは平成23年の質疑
長年、自主カリキュラムをやりたい教組側と保守側の攻防が続いていた。
こんなものは氷山の一角である。
自主編成運動の黒歴史
自主編成運動というのは教科書検定制度の直後に始まったといえる
現在の教科書検定制度は、1947年に制定された学校教育法に基づくもので、法律制定後に日教組は「日教組で教科書編纂」を目論んだ。
んだが、結果的には「検定不合格」の大量発生となり、ここで日教組は「検定教科書の独自編纂」から、「自主編成」へと舵を切る。
後に作られた「教師の倫理綱領」で「教師の教育権の権力からの独立」が謳われたこともあって、独自カリキュラムを推し進める動きが多発することになる。
なぜ保守政治家が負け続けたのか?
保守系の政治家は結構頑張ってはいた。 中山成彬氏とか義家弘介氏とか、平成入ってからも日教組の屁理屈を追及してはきた人もいたんだけど、民間教育団体や教員養成大学の問題にはなかなか手をつけられなかったんだと思う。
というか、政治家の殆どが戦後育ちになり何が問題だかわからない政治家も増えていったって部分もあるだろう。
今までの党内野党しぐさ見るに、石破茂総理や村上総務大臣に、日教組問題がわかるんかい?というと謎だと思う。
彼らは 「学級会民主主義」方式のほうが親和性高そうである。
どんな政治家も「被教育者」であった時代があるわけで、戦後、国公立の小中学校に学ぶ限り、日教組的なものに反発できないと、それに飲み込まれてしまっている部分があるのではないだろうか。
こと、石破氏や村上氏が学んだ国立大学の附属学校園(鳥取大付属小中、東京教育大付属小中高)などは、日教組教研運動の最先端の発信地でもあったわけで、その影響を意識することは難しいことかもしれない。
こういう世代的な問題もあるんだがそれだけではない。
教員組合という「組織」にばかり目が行くとと、日教組運動のキモが見えなくなるって部分はあるだろう。
今日残ってみるものをみれば「学者の屁理屈」と「民間教育運動」とによって作られた各種の「正しさ」こそが問題の要であった気がする。
歴史問題や日の丸・君が代問題が話題になりやすかったが、日教組問題のキモは
自主編成(教育権と解釈の独占)
集団主義教育(道徳の独占、含む”家族の否定”)
感動中心の国語教育(日本語の破壊)
あたりにあったのだと考える方が妥当だろう。
この中心は長年「日教組の闘争」の中では目立ってこなかった。
冒頭の図を再掲しておこう。
「日教組」は終わった問題か?
どうやら、教育学者先生たちの中には「日教組問題」を終わった問題にしたい人たちがいるようだ。
どうやら「日教組は悪者扱いされてきた」といったところに落ち着けたいご様子である。
しかし、この著者の広田照幸氏が、
奈良教育大付属小問題に係る教育オープンレターの呼びかけ人に名を連ねているわけで、この字ヅラをそのまんま信用できるかわけがない。
この本、私も入手して読んでみたが、日教組教組教研運動についての記述がろくすっぽなく、上巻は、組織の発足と教師の倫理綱領成立前後の執行部近辺の動き、下巻は1980年代以降の総評との関係を中心とした主流派と反主流派の政治抗争に終始している。
国民:被教育者に影響を及ぼしてきた「教研運動」が盛んであった1950年台後半~1970年台末についての記述がかけらほどもない。
「教師の倫理綱領」がどういう風に「運動」に利用されてきたかといった部分に触れずに、「日教組は誤解されてきた」というのは、とても変な話である。
末端組合員に対する、運動への積極的参加のアプローチに「教師の倫理綱領」は都合よくつかわれてきたのではなかったのか?
「日教組と文部省の歴史的和解」といった口当たりのいい文言で、水に流すわけにはいかないのは、広田氏自身が奈良教育大学付属小問題で「アクロバット詭弁」を使う運動に与みしていることからあきらかである。
もうお一方挙げておこう。
要約するとこんな感じ
『日教組に集う民主的教師たちはそれぞれの現場で子どもたちに寄りそって頑張ってきたが、反動保守勢力によって民主的な動きは幾たびもつぶされてきた。これからはインクルーシブ教育で教育をとりもどそう』
なぜ行き詰ったのか?ああ、簡単な話だ。
日教組教研運動の多大なる負の影響について、教育学者が頬かむりしてきたからだろうさ。
この本の著者の著者の小国氏もまた、教育オープンレターに与している。
主流の教育学者にとって1950年代末~1980年代の「日教組教研運動」は、どうあってもフタをしておきたいもののようである。
主張スタイルも昔ながらのスタイルを踏襲しておきながら「日教組はそんな悪いものではなかった」というのは欺瞞でしかない。
日教組運動の成立から
日教組ができてきた流れ
1945年末に連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)から、民主化の一環として、教員組合の結成が指示され、いくつかの教員組合が立ち上がり、一本化したのが「日教組」である。
結成から4年後の1951年に第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開催し、以降ずっと開催している。
すなわち、単に教員の労働組合ではなく「現場からのボトムアップで教育を豊かに」という指向性をもつ職能団体としての側面を初期からもっていた。
そこに大きく関係するのが日教組講師団or助言者という、学者や知識人である。第一回の教研大会の講師陣は下記の通り
石山修平 周郷博 岡津守彦 山田清人 藤林敬三
内山正輝 城戸幡太郎 菅井準一 宗像誠也 大河内一男
山川菊栄 宮原誠一 中島健蔵 丸岡秀子 木田文夫
宮城音彌 松野憲治 大島功 梅根悟 太田堯
神崎清 古川原 南博 山下俊郎 功刀嘉子
羽仁説子 海後宗臣 帆足計 桐原葆見 勝田守一
清水幾太郎 海後勝雄 矢川徳光 鶴見和子
その後、出入りがあるが…
末川博、国分一太郎、上原専禄、都留重人、長洲一二、井上清、武谷三男、中村哲、永井道雄、日高六郎、戒能通孝、竹内好、宮坂哲文…などなど錚々たる左派学者、左派論客が日教組講師団として活躍している。
彼らが世間に発する教育言説が、日教組と教研集団を率いてきたことは間違いないだろう。
組織率は右肩下がりではあるが
日教組の組織率は、文部省による調査が開始されて以降下がってはきた。
なお1989年に急に下がっているのは、日教組の分裂(全教への移動)によるものである。
左派教職員団体、日教組も全教も組織率下がってきているものの、比率が高い都道府県もある。
実数ベースでグラフを作るとあら不思議
文科省の学校基本調査と教職員団体加入状況調査からグラフ作成
日教組の組織率はずっと下がり続けているものの、人口ボーナスで実数は、1960年代末~1980年代前半まで増えてたいた。
1989年の日教組分裂直前で1971年と同じくらいの組合員がいた。 だから教研運動もそれなりの勢力がキープされていたとみる方が正しいだろう。
槙枝元文時代の日教組が案外強気だった理由が見えてくるというところだろう。
組織率急落してても人口ボーナスで組織は大きくなっていたというのが実態である。ピークは1980年代前半。 上記のグラフには日高教をいれてないから、いれると1965年以前の下り坂はもうちょっとだけ緩やかなはず。
学生紛争や過激派の活動で、世間が左翼にドン引きしてた頃から日教組が実数を伸ばしていた。
1973年にはこんな本も出している。
「民主的で自治的な教育」の名のもとに
そして、組織率や成員数だけでは計れない部分もある。
教員養成大学の教員の左傾化問題である。
団塊世代とベビーブーム世代が学齢期にあり、なおかつ高校進学率の上昇で、教員採用数が増えていた時代、大学あるいは短大を出て教職に就いた新人教員たちが頼れるのは「民間教育団体(教員サークル)」と「教員向け雑誌」であった。
そして、1960年台~1980年台、日教組講師団や日教組傘下の民間教育団体をベースにした教員向け書籍や雑誌が大量に発行されている。
なかでも「生活指導」と「特別活動」分野は、戦後になって躍進したジャンルである。「民主化」の掛け声と一緒に闘争的な教育がなだれ込んでいた。
教科教育と被らないために急激に伸びていった部分はある。
戦後のドタバタから
1953年には「京都旭丘中学事件」という事件も起こった。
「自治的な教育」を推進しようとする教員らと、対抗する管理職・父母層との衝突である。
このような闘争教育をシステマイズしたような「集団主義教育」が1950年台後半あたりから教員サークルで注目を集めはじめ、1960年台初頭以降にマニュアル化がさらに進む。
集団主義教育とは…
簡単に言えば「革命戦士を育てるor民主集中制適応人材を育てる教育」である
戦後の集団主義教育の萌芽は田川精三率いるエヒメ集団教育研究会であろう。1956年に「集団教育への道:その理論と実践」という本が出版されている。
この本は存在は確認できるものの、国会図書館にすらないので、私もよんでいない(誰か国会図書館に寄贈してくれないかな…)
1958年に出版された『集団指導99の相談』で、概ねエヒメ方式の概要はつかめると思う。
集団主義教育は勤評闘争の敗北後(田川精三がその運動にもかかわっていた愛媛は日教組がほぼ壊滅に至ったため、愛媛県ではすたれた模様)は、大西忠治率いる「香川生活指導研究協議会」にベースを移し、1959年に発足した「全国生活指導研究協議会」という全国型の教研団体の主流が、集団主義教育派になるとともに、日教組教研での全国的な拡がりが発生していった。
「革命の前衛をつくるための教育」というようなものが「民主的な自治の確立」の名の下に学校に入り込んでいったことは、まぎれもない事実だろう。
いやはや…、ソビエトの義務教育段階の7~8学年やそれ以上の年齢層のコムソモール組織のアクチーフorピオネール組織のアクチーフ育成のやり方を、小中学校教育に移植しているのだ。
別の本には日本は未革命状態だから…ことでいろいろ屁理屈を捏ねまわした形跡がある。この辺は戦前から入ってきていたマックス・アドラーの未革命国家での社会民主主義教育論を彷彿とさせる。
『教育革命への途 マックス・アドラー/堀秀彦 日東書院 1930』
戦後世代が教員になっていく時代
戦後世代の若い教員が増えていく1960年台半ば、若い教員にはすぐに役立つマニュアル化されたものが望まれたのかもしれない。
『教育評論』誌の座談会より、国分一太郎の発言にその様子がうかがえる。
1960年台の末、教員養成大学自体も、高度成長末期にはセクト化した学生運動で結構な目に遭ってはいる。
が、教研運動を支えてきた大学の先生達が、日教組と協調して、教研運動の末端の活動を通して「声を上げる活動家」を育ててきた部分があるということは、これまであまり注目されていなかった部分だろう。
1960年に10歳だった子は、1969年には19歳になる。
学校教育によってうっすら活動家マインドを育まれて成長した子はけっこいたのではないだろうか?
日教組教研問題が忘れらられやすかったメカニズム
日教組教研運動と教員養成大学の関係は、一般大衆には見えにくかった。
西洋の哲学者や教育学者の名前をやたらと持ち出した煙幕や、アクロバティックな詭弁による煙幕は、子育て期の普通の親には歯が立たない者であっただろう。
1970年台半ばで考えるに、調べようにも一般の図書館では追い付かない部分があっただろう。
昭和10年生まれの父母の場合
1975年に10歳児の親である40歳くらいの父母で考えてみよう。
昭和10年、1935年生まれ…この世代だと中卒が非常に多い世代。
新制高校進学率は、男子20.4%、女子16.5%
高等教育(大学等)への進学率は 男子5.6%、女子0.6%
(出どころはこちら https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000313436)
さらに、昭和10年生まれの層が社会に出たころ…昭和20年台末というのは「大学の先生」は今の1/4以下だった。
つまり、この年代の父母層は「大学でなにをやってるかを知らない」ので、教育学者の屁理屈(≒詭弁)には至って弱かったのだ。
時代は高度成長期を過ぎたあたり。実務に関係すること、生活に直結することであれば、それなりに知識とスキルを蓄積していても、教育思想については、ほぼ丸腰である。
うさん臭いのはわかっても
日教組がなにやらうさん臭い…というのは、テレビや新聞で、勤評闘争(1958年)、学テ闘争(1961年)、違法ストの数々、家永裁判への動員、紀元節復活反対運動、平和運動への動員等々、日教組の暴れっぷりを見れば思う人もいただろう。
だが、教員養成大学や、そこで教鞭をとる教育学者が、その輪の中に含まれているというのは、想定外であった人が殆どだったろう。
『まさか大学の先生がそんな詭弁をつかうなんて』なのである。
こうやって、日教組の問題は「一部に騒いでいた左翼教員がいた」以上には当時の父母層の記憶に残らないようになっていた。
いざ、開かん!
その状態は今世紀初めまで続いていただろう。
大学進学率はかなり上がった。前世紀末には放送大学もできた。大学教員数も増えた。もはや「高等教育」はそれほど縁遠いものでもなくなった。
にもかかわらず、一部の教育学者は、相変わらず日教組教研しぐさを繰り返している。
教員養成大学は、長年、批判も浴びずにぬるま湯につかり過ぎて 蠱毒化してしまったのだろう。
「新しいい教科書をつくる会」が、歴史教育の問題に先鞭をつけた。
そして、2007年には原武史氏が「滝山コミューン一九七四」を上梓。これで集団主義教育への足掛かりができた。
さらに、2011年には社会学者の竹内洋氏が『革新幻想の戦後史』を上梓。
教育学者の欺瞞への足掛かりができた。
(↑文庫版もあったはず)
そして、最近では、国会会議録検索の性能があがり、国会図書館デジタルコレクションが充実してきた。戦後~高度成長期にかけて、何がどうなっていたのか?を知ることは、昔と違って格段に容易になっている。
戦後ながらく蓋がされてきた、教育学者と日教組教研運動の癒着ともいえる問題は、いくらでも漁り放題である。
「学校教育が崩壊する」
「子どもたちがかわいそう」
といったセリフは聞き飽きた。
いじめや不登校の問題が棚上げになったまま何を言っても説得力はない。
蓋をされてきた教育問題こそが「戦後レジーム」の本体だったのだ。
いざ、開かん!
扉の鍵は、もう、かかっていない。
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