小学校時代の反省会吊し上げといじめの日々をつらつら書いてみる(その2)
※ いじめの描写を含みます。フラッシュバック注意。
その1はこちら↓
小5 クラス替えとともに再び反省会吊し上げの日々に
小4の秋の担任の休職を契機に、反省会吊し上げもいじめ一旦おさまった。が、その後そのまま平穏な日々が続いたかというと残念ながらそうはいかなかった。
学年があがり、担任も変わった。今度の担任は30前くらいの女の教師である。 「研究授業」なるものがあり、教室と外廊下には大勢の教員と思しき観客が溢れかえった。教科は国語だった(※)
大規模校だけにクラスメイトは相当変わったが、帰りの会に「反省会」が再び登場した。そして「決議」というものも登場する。
※地域教研サークルの若手の星だった可能性は高いだろう
「班競争」がスタートした。
「忘れ物比べ」「宿題」「掃除の評価」「漢字小テスト」
その日の状況は日直によって発表され、競争成績のよくない班に
「〇班は後ろでどうしたらよいか話し合ってください」
と、教師が「話し合い」が命じる。
話し合いを命じられたところで、どうしようもない。
適当に話し合ったふりして「解決策」っぽいことをでっち上げて発表する。
なんとも無意味だなと思いつつも、どうしようもない。
エスカレートする帰りの会と学級会
帰りの会は瞬く間にエスカレートした。
こんどの担任は帰りの会の途中に職員室に消えるということはなかったが、公平性などはなかった。
「クラスor班に協力的でない罪」が格段に重くなった。
「決議」という形式も増え、人民裁判の様相は濃くなっていく。
苦情予防だろうか?下校時間ギリギリまでとかいうことは少なくなったが、それでも一時間くらいはザラ。基本毎日である。
そして、カタがつかなければ、翌日の授業をつぶしてその続きとなる。
たまに遠くの眼科への通院で給食後に早退するのが、非常に嬉しかった。帰りの会をサボれるからである。
腐った牛乳
腐った牛乳というのは臭い。そしていじめの定番である。
まあ、騙して飲まそうとする…とかいう悪質な手口でなかったが、休み時間などに席をはずした間に机の上に腐った牛乳をぶちまけられたことが何度かあった。
当然誰がやったか分からない。そして、臭い臭い、エンガチョなどとはやし立てる連中が登場するのである。不愉快極まりないが、ぞうきんを絞り、机を拭いて雑巾を洗う。
いつだったか、腐った牛乳の始末をして雑巾を洗いに行っている間にチャイムが鳴り、私が戻ると担任が教卓の間にいた。
事情を知らない担任が、着席していないことについて私を詰問する。
「腐った牛乳を机の上にぶちまけられたので、机を拭いて、雑巾を洗ってきました」
とそのまんま答えた。
担任は、誰がやったかを学級に問うこともせず「早く席に着きなさい」と言うだけであった。
モノがなくなる、破壊される
モノは良くなくなったし、破壊された。
筆箱が踏みつけらている状態で発見されたり、中味がなくなったり、プリント類がグチャグチャにされたりの類である。
掃除の時間で外に出ると上履きがなくなる。何回かは焼却炉に放り込まれていることもあった。もちろん出てこないこともある。
靴がなくなって、上履きで変えることもあった。
モノがなくなると担任も、形ばかりは学級会で取り上げる。
とはいえ、徹底追及するわけでもなく、「やった人は申し出なさい」というとおもに、私に「気をつけなさい」と言って終了になる。
こうなるともう誰も信用できない。
別に靴がなくなっても、親は私を責めやしない…のだが、さすがに続くと申し訳なくなってくる。さして裕福ではない家である。
登校すると私はランドセルに靴を入れて教室に入るようになった。
発見されれば「みんなを信用しない罪」に問われるのはあきらかなので、ランドセルに靴を入れて教室に持ち込むこともリスクなのであるが、いたしかたない。
そして、ついに発見され、ある日の反省会のネタになった。
「みんなを信用しない罪」で「謝るべき」
と決議されたが、そもそも靴が頻回に無くなることのほうが問題なので、私は謝るのは当然拒否する。そして反省会は膠着状態になる。
膠着すると「この議題は明日臨時学級会で」と担任が宣言して下校となる。
古典芸の「靴に画びょう」「靴に剃刀の刃」
すぐわかるじゃないか…と思うのだが、これも何回かあった。まあ、やってみたかったんだろう。
出てきたブツを下駄箱の脇のスペースにおいて普通に靴を履いて帰った。
古典芸その2 黒板消攻撃
ドア上部からの黒板消落下…仕掛けたようではあるが当たらなかったのでスルーしておいた。
数人の男子が黒板けしをで直接攻撃してくることもあった。こういう場合はちゃんと反撃するのでケンカになり、反省会に持ち込まれ、例によって謝れの大合唱になる。
嫌がらせのお手紙と落書き
しばしばいただいた。
「学校来るな」とか「邪魔だ」とかその程度がほとんど。「死ね」はたまにあったかな。
これは、実は私よりも父が激怒していた。たぶん管理職に電話くらいかけたのだろう。担任も仕方なく学級会で取り上げたことがある。
が、結論はいつもと同じである。
「クラスメイトを疑う罪」
がプラスされただけに終わった。
机、教科書ノートへの落書きも時々起こるようになっていた。
途中から、父も担任の異常さに気が付いたのだろう。私への、父の入れ知恵が超戦略的になっていった。
「騒ぎはできるだけでかくしろ、但しぜったい先には手を出すな。過剰防衛にならない範囲で暴れてこい。身の危険を感じたら全力で逃げろ、騒ぎがでかくなったらあとはこっちで何とかする。」
私はかなり気の強い性格であるが…さすがに当初は少し躊躇した。
嫌がらせ系その2
鉛筆の先で後ろの席のやつがつつく、椅子を揺らす、座ろうとした瞬間椅子をひく、足をひっかけて転ばされそうになる。
この辺は、実力行使で対応していた。
椅子系には机をぶん投げる。但し怪我人が出ないように必ず明後日の方向にぶん投げ、椅子を盾にしての抗争に突入する。
反省会で「暴力はいけないと思います」とネタになる。
こちらから手を出すことは無いし、だいたい数人対一人になるので、卑怯千万な言いがかりであるが、例によって「謝罪論争」になる。
予防線を張った動きをするとこんどは「人を信用しない罪」に問われる
何回か大立ち回りをやったら、案の定臨時父兄会がひらかれた。
「椅子が隠される」という妙なものもあった。
担任は私が一人で探しに行くよう指示する。
でかいもの、短時間の休み時間中に隠しきれるわけがない…すぐ見つかる。授業を合法的にサボって探しに行けるだけなので、さっくり発見してゆっくりと教室にもどるだけであった。
水を飲むのも結構危険
体育が終われば皆のどが渇いている。水飲み場に列ができる。
水筒を持っていくご時世ではない。水道の蛇口を上に向けて飲むスタイルだ。
だが、結構コレが危険なのである。蛇口に顔を近づけたときに悪い奴が後ろから頭を軽く押す…そうすると、顔面か口の中に蛇口が当たる。よく歯を折らなかったものだと思う。
すぐ後ろにいたやつを踏んづかまえる…と、オレじゃないと言い張る。皆グルである。
そして、水道前でもめた挙句に放課後の反省会へとなる。
そこで出てくるのは
「証拠はあるのか」
「クラスメイトを信用しないのは良くない」
「クラス全員に謝れ」
証拠はあるのか?論法
嫌がらせの類というのは非常に証拠が残りにくい。誰がやったかわかっているものであっても、証明は難しい。
まして学校の中である。
誰が初めにちょっかいを出したか?で「証拠はあるのか?」論法が登場する。
証言…そりゃ、だれもしない。
そして「証拠がないのに責めた罪」
となって「謝罪論争」となる。
破壊されたモノという動かぬ証拠がある件が放置されるのであるから、不思議なものである。
ある時、男子の扇動をしている、太田(仮名)が、なんと母親に「濡れ衣をきせられた」と言ったらしいことが切っ掛けでその腰巾着の花田(仮名)の母親もそれにのっかり、臨時父兄会が開かれた。
実は逆恨みなんですよ。そのちょっと前に、放課後に太田と花田が挑発してきて2対1でケンカしたら私が勝っちゃったから…(あ、けがはさせてません)、報復に親が引っ張り出された…というところだった。
父兄会は穏便に終わったようで、1週間くらいは反省会が下火だった。
なぜか臨時父兄会をホイホイ招集する担任であった。(※)
※全生研方式でいう「父母を巻き込む」という「形式」かもしれない。
定番の「なかまはずれ」
話しをしない、給食時に机をわざと離す、班に入れたがらない…これもバリエーションが豊富である。
女子の中にも扇動するタイプの子がいた。
中井(仮名)はPTA会長の娘で成績はそこそこ良いくらい。いわゆる「操作的」な振舞いをする子、中原(仮名)は、その腰巾着的存在である。
この二人が「あの子と口をきいてはいけない」を扇動していた。
ターゲットは私以外にも数人いて、仲間外れにする子を変化させていくことで、女子層を支配していた。
実のところ、その扇動に全く乗らなかったがために、仲間外れだけにとどまらずに、反省会のターゲット化された…という面はあった。
人とつるむことに執着はないし、放課後の遊び友達はクラス外にいたから、仲間外れについては大してダメージはなかった。
仲間外れにされた子は概ね気の弱い子であったが、私が支配層ルールに従わないこともあり、こっそり私に情報をくれる存在になっていた。
トイレの上から水が降ってくるの段
誘い合ってトイレに集団で行く…というのは、小学生女子の常であるが、それを私はやらない性質であった。
まあ、それはともかく、ある日用をたそうとトイレに入っていたら、何やら集団が入ってきた。女子の声である。
まあ、声の主は女子支配層の中井とその腰巾着の声なのはすぐわかったが、その後の成り行きは想像してもいなかった。
上から水が降ってきたのである。
バケツ一杯分くらいだろう。
ずぶぬれになったために、保健室に行って体操服を借りて着替えた。
用足し中の襲撃はさすがに卑怯である、頭にきたので帰りの会の反省会で「水が降ってきた」ことを私が議題にしてさしあげた。
後先は…考えてはいなかった。
いつものように「仲間を疑う罪」になっただけだ。
相も変らぬ逃走の日々
反省会の膠着が長時間に及ぶことが増えると「翌日の延長戦」となることが増えた。
反省会中の逃走の頻度は減ったが、授業をつぶしての臨時学級会での逃走に変わっただけだ。
こんなに授業潰して他の子勉強は大丈夫なのかな?と、思っていた。
議題がすでにおかしかった「★さんの問題ついて」にすり替わっている。
延々と「★さんはなぜ謝らないんですか?」も続く。
私はずっと立たされ続けである。付き合ってられないので、当然途中で逃走する。ただし、午前中だと家に帰るのも気が引けるので校内で隠れる。
体育倉庫の壊れた大玉の中、昇降口脇に置いてある跳び箱の中、講堂の椅子の間。講堂と渡り廊下のつなぎ目の謎スポット。古い学校であり、継ぎ足し継ぎ足しでできているのでトマソンスポットのようなところは豊富にあった。
不思議と発見されて引きずり出されたことはない。
私を探す足音が遠ざかり、チャイムが二回なって次の時間になった頃にのこのこと出ていく。職員室に近辺で保護され、管理職に付き添われてクラスに戻るというパターンである。
何のために学校に通うのか?はすでに意味不明の領域。
とりあえずは常在戦場の日々である。
ちなみに、父兄会ではしっかり「★さんのせいで授業がつぶれる」と問題なっては、父ちゃんが処理する…という場外バトルが起こっていたらしい(後年きいた)
恐怖の自習体験
担任は研究授業への出張などで、時折一日自習になるということがあった。
実は結構これが嫌だった。基本的に一日中騒々しい時間を過ごす羽目になる。騒々しいのは基本、苦手である。
だが、ある日それ以上のことが起こった。
自習の授業時間が終わって帰りの会。例によって吊し上げ大会であったが、 その中でとんでもない決議がなされた。
「百叩きの刑を受けるべき」
ここまでくると完全に人民裁判である。
いくら反省会吊し上げを是とする教師でも、さすがに教師の目の前では暴力沙汰は起こりにくいが、教師がいないことで枷がはずれたわけだ。
中心となる男子が束になって私を廊下に引きずり出し、外廊下の手すりに押しやり、凶器であるほうきが何本か持ち出された。
えらいことになったとオロオロする子もいたが、止められるわけもない。ニヤニヤしている子もいる。
多勢に無勢すぎて抵抗する気力もなくなった。
いままさに一撃という時に、ふと扇動する子の表情を見て、我に返った。
その子らの顔に残虐さだけがあった。
「殺される」と思った。
私の腕を抑える、扇動組の腰巾着の手をふりほどき、階段を駆け下りた。
普段から逃走目的で二段飛ばし、三段飛ばしで階段を下りる練習していたので逃げ足だけは早かった。
隠れなければ…と校舎の外にでたところで、竹ぼうきをもった用務員さんとばったり会う。
住み込みの用務員さん夫婦が学校の敷地の中の小さな家に住んでいた。
用務員さんがなにか察したのだろう、こっちにおいでと手招きしてくれて、私は用務員さんの家の中へと逃げ込んだ。
助かった
私を追う集団は別の階を探しにいったようで、彼らが騒ぎながら降りてきた音をきいたのはしばらく後だった。
用務員さんの奥さんがお茶とお菓子を出してくれた。
小一時間ほどして、クラス全員が帰った頃に教室に戻って帰り支度をして帰った。
その翌日の反省会では前日のことは何も問題にされなかった。
首謀者もさすがにそれを議題出すのことが都合が悪いと知っていたようである。
教室掃除は乱闘がおこりやすい
掃除の時間、廊下や屋外の掃除よりも案外教員の目の届かない教室掃除が問題だった。
教師の目をぬすんで攻撃の隙を狙っている男子悪ノリ勢が長柄ぼうきをもって仕掛けてくる。
女子勢は完全に傍観である…
数対一なので、相手にけがをさせないように応戦すると多少は直撃も食らうのでアザくらいはできましたね。担任もしくは他の教員に見つかると終了。
そして「★さんが暴力をふるいました」と反省会のネタになる。
濡れ衣(冤罪)は証言によって補強される
濡れ衣も議題として提起される。カンニング疑惑以外にもある。
「★さんが花壇を踏み荒らしてました」
「★さんが掃除をさぼっていました」
の類。
やってもいないことをやったと言われるのは腹がたつが、やっていないことの証明というのは難しい。そして、
「見てました」
という証言が登場するのがお決まりのパターン。
かくして有罪判決が下され、謝罪論争に突入する。
ちなみに、担任がしっかり「見た人はいますか?」と誘導をかけていた。強い側に忖度するヤツが出るのは当然である。
(家に帰ってこの手の濡れ衣案件を話すと、決まって父ちゃんが「疑わしきは罰せず」という原則があることを説明してくれた)
「★さんが暴力をふるいました」
これは、まあ手を出されたら応戦するためにやることはあるのではあるが、どっちが先に手を出したかで、嘘の証言をする奴が出る。
「クラスのみんなに謝れ」という結論になるのが不思議で仕方がなかった。
カンニング騒動
とうとう「テストでのカンニングをしていた」と訴える輩が登場。
こればかりは、さすがに無茶である。
私にカンニングのメリットが全くないからだ。カンニングして点を悪くするバカはさすがにいない。
担任も苦虫をかみつぶしたような顔をしながら「ひとをそう疑うもんじゃありません」というしかなかった。
土下座で謝れ
謝罪要求も徐々にエスカレートしてくる。
「クラスのみんなに謝れ」
「土下座して謝れ」
という決議がなされることもあった。もちろん、担任はそれを止めない。
「反省すべきだと思います」
という意見も出てくる(何を反省すべきなのか?)。
「罰として三べんまわってワンと咆えろ」とかいう、わけのわからないのまで登場する始末。
さすがにあきれ果てた。
もうここまでくると一部の層にとっては「反省会」が一種のエンタメであったのだけは確かだろう。
もともと謝罪要求が無理筋であるため、私が謝罪に応じるわけがない。
そもそも殆どが「濡れ衣(冤罪)」であるし、乱闘系の場合も「一方的」であったりする。「集団に対する罪」など、ほとんど因縁であるので、応じる理由はない。
応じないと速攻で「★さんが謝らないのは良くないと思います」という追加意見が出る。
「そうだそうだ」の掛け声が上がる。
担任が「なぜ謝らないのか?」を私に問いただす。
ここで泣いて謝りでもすれば解放されるのかもしれないが、残念ながら私はそういう性格をしていない。
謝らない理由を述べると繰り返しになる。しんどいときは場合によっては逃走することになる。
お決まりのパターンは、男子悪ノリ勢が議題を提起し、女子ボス周辺が「謝まるべきだと思います」等、追い打ちをかけるというものであった。
なぜか受け入れられたある抗議
反省会でネタにされると起立させられる。集中してやり玉にあげられると、私は立ちっぱなしである。
座席は視力の関係で比較的前の方であるので「みんなの方をむきなさい」と、後ろを向かされる。まさに人民裁判の様相になるのであるが、クラス全員の表情が見える利点はあった。
ただ、1時間くらいたちっぱなしになることはザラだったし、私は低緊張ぎみの子どもであったので、姿勢を崩さずに立ちつづけるのはかなりしんどい(後年、低緊張は解消して、立ち仕事耐性はついた)。
姿勢が崩れると速攻で「バカにしている態度だと思います」という、よけいなご意見も出てくる。
長時間くだらんことでひとを立たせているのはいったいだれだ?という…のももちろんあるのだが、とりあえずしんどい。
ある時、たまりかねて、担任に「発言するとき以外は着席させてほしい。私ばかり立ちっぱなしというのは公平ではない」と抗議した。起立というルールをひいているのは担任なので、とりあえず抗議先は担任だろうという判断であった。
まあ、もめたらもめたで別にいい、クラスの決議で却下…はあり得るだろうと思っていた。
だが、担任は、一瞬考えたあと「わかりました、では、発言時以外は着席していいです」と、さっくり決裁をくだした(※)。
私もかなり意外であったが、クラスメイトもきょとんとしていた。
とりあえず、私の肉体的負荷は減った。
(※ 全生研方式において「自分が不利なことには黙っていない」は是であるし「教師に立ち向かう」も是である。ここから、担任が同方式の原則に沿って判断したことが推測される)
反省会延長戦の内訳
無理な謝罪要求にはほぼ応じないので、当然毎日のように膠着状態になる。だが、クラスメイトも適当で帰りたいのである。
そこで、「★さんは反省すべきです」といった「決議」で、強引に終わらせることになる。
だが、議題が混線して膨れ上がったりこともある。まあ、混線をほどきながら議事進行などという技が小学生に使えるわけはない。
適当な時間で担任が「この議題は、明日、臨時学級会で話し合います」といって散会になる。
そして翌日の授業は朝っぱらから1~2時間つぶれるわけだが、謝罪論争の果てに担任がもっていく方向性がよろしくない。
「★さんのことについて話し合いましょう」にすり替えていく。
クラスメイトは「★さん=私、のありよう・態度に対する意見」を出すわけだ。
大きなお世話な「★さんは、こういうところが問題だと思います」「こうすべきだと思います」が山積みになる。
ほぼ人格攻撃なので、基本不快であり、そして辛い(なので時々逃走した)。
そして、担任が「みんなの意見をきいて、★さんは反省してください」という、私への説教で終了する。
周辺情況いろいろ
そのほかにも、訳の分からないことは多かったのでざっくり書いておこう。
連帯責任で居残り勉強
班競争は「学習」にも及んだ。
計算や漢字の小テストで合格点(8割)をとれない子が多かったビリ班は居残り勉強が課せられる。
漢字の書き取り、計算の練習課題があたえられるのである。これには大いに不満であった。
なぜ連帯責任なのだ?
担任は「教え合い」とかいうのを狙っていたようであるが、うまくいくわけはない。計算ならまだ教え合いも多少は可能であるが、漢字が苦手…は小学生にはどうしようもない領域。
不毛な懲罰でしかなかった。
ただ、反省会が拗れまくったためにその影響で消滅することも結構あった。
社会と国語はろくなもんじゃない
担任は家庭科以外の全教科の授業をうけもっていた。
その中でも社会と国語はどうにもよくわからないものだった。
何やらよくわからないが「班で話し合って」という学習スタイルが多くなった。
何をどう話し合えばよいのかわからない課題、そして発表者の押し付け合いになるのが常だった。
教科書以外の話も多い。平和関連の話に繋がるとうんざりである。なぜならそうなると授業が延長されるのが常だったからだ。行きつく先は決まっている、「いまの平和な時代のありがたさ…」という説教になるだけだ。
あー、またか…と思うものの、言う先もないのでどうしようもない。毎回早く終われと祈るだけである。
その後に必ず授業が変更になるのもなんだかなあ…とおもっていた。
学級会の吊し上げがひどくなった時期に平和の話なんかされた日には
「あんたのおかげで、毎日戦争状態なのに何が平和のありがたみだよ!クソッタレ!」
という罵倒が私の腹の中でどす黒く渦巻くのであった。
移り変わる班の編成替え
班の組み換えは結構頻繁にあった。
そして、そのたびに決め方が変わる。
1)はじめは出席番号順の座席から6人ずつ決める強制方式。
2)くじ引き方式
3)まず好きなもの同士で組み、それをもとに適宜教師が組んでいく方式、
4)班長を先に選んで、その班長を子どもが選ぶ方式
5)班長を先に選び、班長が班員を選ぶ方式
4や5の型式だと、あたりまえに「あぶれる子」が発生する。
私もその一人になったが、他にも何人か「あぶれる子」がいた。
貧困家庭の子、成績の悪い子、気の弱い子、ケンカの弱い男子などである。
要は、やり玉にあがりやすい子と班競争に不利になる子があぶれるのである。
テストの点数をとっても悪いことが降ってくる
毎日反省会の明け暮れの上にいじめが蔓延している状態であるが、なぜかテストの点はよかった。
まあ、教科書はもらったとたんに全部読むクチだし、つまらない授業では暇つぶしに教科書の隅っこまで読むし、弱視の視能訓練がてら漢字練習していたり(記号の書き写しの代わりに)、風邪ひいて休んだときは教育テレビ(今のEテレ)見ながら寝ていたり(本読もうと起きだして熱ぶり返すよりマシという扱い)…というだけである。
ただ、結構これが問題だった。
担任はなぜか「テストの得点トップ」を紹介する。頻繁に名前があがる。
周りは「どんなに勉強しているのか?」を私に聞く。
本を読むのは好きだったが、学習塾にもいってない。実は宿題すらもほとんど家ではやらず、時間中とか登校後にこなしていた。算数国語のプリント学習とかいう、通信添削のハシリみたいなものを、ちらとやっていたが…毎日はやっていない。
真顔で「あまりやっていない」と答えるのが気に入らない層がいたようである。吊し上げを執拗に狙う層はそういった層から発生した。
担任は担任で、「勉強はできるのに協調性がない」「テストの点だけよくてもダメでしょう」「板書とらないのは態度が悪い」と責め立てる。
ああ、いいことはない。
(板書については…かつ書き写す速度が遅すぎで取れなかったのと、当時はとる必要性がなかったのだ。単なる発達障害あるあるである、WAISEで検査すると符号転記のみが標準よりかなり下のスコアであるので板書ノートは苦手で当然である)
風邪引き後の罠
私は結構身体が弱かった。一旦風邪を引くと熱が数日下がらない…ということもしばしばあった。
かかりつけの医者から「あんたは、熱が下がっても3日は家で大人しくしときなさい、でないとぶり返すから」と、厳命されていた。まあ、本当にぶり返した黒歴史があるので仕方がない。
風邪引くと最低1週間は休むことになる。
だが、風邪といえば一日二日で治る…と思っている人は結構多いようで、
やっと治って登校すると「ずる休み疑惑」が広がっているのが常であった。
再登校直後にテストで満点なんぞとろうものなら、「ずる休みしてガリ勉している、ずるい」尾ひれがついていたようである。
突発的に炸裂する教師の怒り
授業の途中、何故かときどき担任が怒り出す。
ネタは「やる気」である。
「アナタたちはやる気があるんですか?」
といって怒り出す。
普段の授業でもあったし、運動会の練習でもあった。
班長か日直かは忘れたが、ニ三人で教師に謝りに行く…と、担任が戻ってくるという定番のパターン。
「またいつもの…」という顔をする層と、「どうしよう?」とオロオロする層がいた。
私は基本、前者ではあったが、成り行きで一回だけ職員室に行って交渉する羽目になった。説教食らう役でしかなかった。
何のためのそんなことするんだろう?と思っていた。
※定番の「指導法」の一つであったようだ。
運動能力のムラと触覚過敏
体育もしかりである。私の運動能力にはムラがある。
徒競走や持久走、ドッジボールはからきしダメで、平均台だの跳び箱だの幅跳び高跳びだのは結構いける。放課後は近所の男の子たちと混じって野球をやったりもするので、運動嫌いというほどでもない。
ムラがあっただけだ。
やはりまた「ひとをバカにしている」だの「真剣にやっていない」だの言われることになる。
担任は叱責する、当然、反省会のネタにもなる。
運動会の練習も問題だった。
ガキの頃の私はかなり極端な触覚過敏である。
そのため、運動会の陣形をとる際などの「前の人の肩につかまって移動」が地獄だったのだ。くすぐったいを通り越して「ギャー」という感じである。
やはり担任に目をつけられた。
「真面目にやらない」「ふざけている」といって叱られる。
後ろの子が「つかまってるふり」をしてもらう交渉に応じてくれればやり過ごせるが、意地の悪い子もいた。
教職員ストライキ
1974年、日教組のストライキがあった。
テレビにもストライキ予定であることのニュースが流れ、公立学校の教職員というのは、ストライキが認められていないのを知る。
鉄道のストライキが多かった時代ではあるが、学校がストライキっていったいどうなるんだろう?と、全くピンとこない。
スト当日、普段通り登校し、朝の会が始まるチャイムが鳴ると、おそらく半分以上の教員がストに参加したのであろう。あちこちがざわつき始めた。
私のクラスの担任は…スト参加組だったようで、出てこなかった。
校長、教頭、教務主任等管理職をはじめ、スト非参加の教員が、走り回って各教室を回り、担任がスト参加であったであろうクラスに自習の指示をしていた。
走り回る管理職の表情の厳しさに、これは一大事なんだな…という感じは子供にも伝わっていた。その日は何事もなく下校になった。
翌日、担任は何の説明もなしに日課をスタートした。
漠然と、教組に対する不信感が芽生えたきっかけであった。
この教師はダメだと確信した算数の授業
確か冬だったと思う。
この頃にはクラス中、教師の顔色か周りの空気を読むことでしか動いていなかった。
正方形の一辺と対角線の長さは同じか?違うか?「違うと思う人手を挙げて」と、教師が言う。
あたりまえに違うのでサックリ手を挙げてしまったのだが、周りは誰も手をあげない。
「私と同じ」は既に危険領域だったのか?それとも、クラスの人気者への忖度だったのかはわからない。顔を見合わせて手を挙げようか迷っている子はいたのは覚えている。
次に教師は「同じと思う人手を挙げて」という。
私以外の総員が手を上げる。
さあ、でかいコンパス使うか、三角定規使うかして説明するかな…とおもいきや
担任は、なにか指導するでもなく
「じゃ、多数決で正方形の対角線は一辺と同じということにしましょう」
と言い放った。
私は「この教師はダメだ」と確信した。
この頃から「この担任の指導でこいつら(クラスメイト)、どうなっちゃうのかな?」ということを考え始めた。
教務主任の秋本先生のこと
なくなった靴を探して回ったことは何度もある。
ある日の夕暮れ、靴を探していると職員室の外階段から、秋本先生(仮名)が顔を出し、声をかけられた。職員室にはもう数人しか先生は残っていなかった。
小1~小2で体育と理科を担当してくれていた、とてもいかめしい顔の、そして見た目に似合わず上品な話し方をする先生である。
「★ちゃん、どうした」
事情を話すとしばらく一緒に探してくれ、それから「もう遅いから迎えにきてもらいなさい」と家に電話をかけてくれた。
母が迎えに来るまでの間、秋本先生とあれこれ話した。
反省会のこと、いじめられていることを話すと、先生の顔はときどき沈痛な面持ちになりながら、ずっと静かにきいてくれていた。
それ以降、ときどき秋本先生が学級会の時間帯に廊下を歩くのをみかけるようになった。それで劇的に何か変わったわけではなかったが…。
(今思うに、管理職と組合員教員間の溝の問題はあったのだと思う)
死ななかったわけ
あれから40年以上たった。
書くとなると武勇談タッチになってしまう。当時の気持についてはろくすっぽ書けていないと自分でも思う。
心中は複雑であった。
5年生当時の私は死ぬことばかり考えていた。
なぜこんな目に合うのか?
メカニズムについては既に前の年に「指導」の問題と認識していたが、それが何の役に立っただろう?
「死んだら新聞に出て問題が明らかになるかな?」という思いもあったし、「明日が来なければ反省会がこない」とも思った。そして「この先大人になってもこういう目に遭うんだろうか?」という不安も膨らむ。
企図した…こともある、ただ、幸いなことに方法がアホすぎて失敗した。
日々闘争しながら、下校したら普通に遊び、本を読み、寝る前には憂鬱になり…という日々だった。
死ぬ気がなくなったきっかけは入院である。
弱視の視能訓練と斜視の手術で都立駒込病院に5年生の夏と秋に二度ほど入院した。普通の病院と違い難病やら小児がんの子たちが殆どである。
眼科で入院している子は基本身体はピンピンしているので異色である。が、他の子とて入院しているからといって大人しい子が多いかといえばそうでもない、外科系で入院している子は案外アクティブである。動ける連中といたずらをしては婦長さんに叱られたり…もした。
(関係ないが駒込病院の食事はうまかった。退院が決まった子たちが残念がるのが常であった)
とはいえ急に病状が悪化してICUに行ったっきり帰ってこない子もいる。その逆に長いことも意識不明で病状も不安定で医師の出入りが激しかった個室の子が、ある日急回復しだして数日で超悪ガキで悪戯しまくり状態になり、主治医に「とっとと退院しろ!」と言われるようなこともある。
いつしか「自分で死ぬことはないな…」という気になった。
9月に入ったころ、着替えを持ってきた母親がデカい封筒を持ってきた。
「クラスのみんなからの見舞いの手紙」だという。担任がクラスメイトに書かせ、近所の子にことづけて我が家に届いたものだった。
私は中味を見ずにゴミ箱に突っ込んだ。
さて、かなり長く書いたが、これで終わりではない。まだ続きはある。6年の2学期いっぱいまでバトルは続いた。
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