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ユーリ!!! on ICE で描かれる勇利とヴィクトルの「愛」の賞賛、肯定は必ずしも同性愛の肯定や尊重ではないのか?

ユーリ!!! on ICE が長い間好きだったけれど最近考え返す中で初めて見方が変わってきて、その中でタイトルの様な疑問に当たりました。

大好きな作品ですが観ながら違和感を感じる場所も所々あって、今回考える中で初めてそれが何だったのか少し見えてきました。ファンの方は不愉快に思われるかもしれないので読まない方が良いです。不快に感じた場合責任は負えませんし、苦情は受け付けられません。

自分と同じ様に作品は好きだけれど何か似た違和感を抱えていたという方がいらっしゃる場合は何かヒントになれば幸いです。

ユーリ!!! on ICE に描かれる勇利とヴィクトルの「愛」の賞賛、肯定は必ずしも同性愛の肯定や尊重ではない

「この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。」


先生のこの発言自体は素敵な事だと思います。しかし、制作がキャラクターをどう扱うのか、久保先生の過去の同性愛への発言やジェンダー観、また作品放送後最近までになされたご発言などを総合して考えると、久保先生の守る発言から「YOIは同性愛に寛容な作品だ」「差別はしない作品だ」と受け取ったり賞賛するのは少し違ったのかもしれないと感じました。


「BL好きはLGBTの肯定とは違う」?

そのような主張を見ると、これまでは正直馬鹿げているとか何を言っているんだと思っていました。実際周りに当事者が少なく、同性愛が出てくる作品からLGBTへの理解を深めサポートを始めたアライの方もいるかとは思います。しかし、今回改めて考え、初めてその主張の趣旨が分かりました。


勇利、ヴィクトルやその他のキャラクターに対する性的客体化

なぜかというと、久保先生が各キャラクターを所々すすんで、彼らの主体を認めないまま、かなり強めに性的客体化(自分にとっての性の対象として見る)されているからです。性的客体化は「モノ化」とも言われます。相手に主体を与えず、自分が一方的に楽しむ事を許された対象だと捉えるため、その行為には差別がともなう場合が多いと私は考えます。(そう扱っていいものだと蔑んでいる)
客体化に関しての説明はこちらが例や写真も載っていて分かりやすいです。ユーリの場面や描写を思い出せる部分もあるのではないかと思います。

「道具性」:対象を自分の目的達成のための道具とすること。「自律性の否定」:自律性や自己決定能力を欠いたものとして対象を扱うこと。「不活性」:行為者性や活動性を欠いたものとして対象を扱うこと。「交換可能性」:他の対象と交換可能なものとして対象を扱うこと。「毀損可能性」:壊してもよいものとして対象を扱うこと。「所有性」:買ったり売ったりできるような所有物として対象を扱うこと。「主観性の否定」:経験や感情を考慮しなくてよいものとして対象を扱うこと。

(久保先生がキャラクターの性的客体化を優先している事は声優の方へのご発言、ト書きの内容、各所の描写などからもキャラクターに無理やり性的な言動をさせてそれを楽しむ様子から見えます。気になる方は調べてみて下さい。作中で言うと本編もそうですがユーリ!!! on Stageにも顕著に現れている気がしました。ちなみに「私の中では本当に『ステファン・ ランビエールの痴漢電車』ってビデオつくってほしいぐらい。そんなAVがほしいよ」、「フィギュアのエロ加点が欲しい」等、現実のスケーターの方々を性的モノ化したいという発言はユーリ制作前からされています。)そのためユーリ制作の根底には元からそうした姿勢、(スケーターを性的消費対象として描く)事があったのだと伺えます。

この作品の見どころは色気であると公言されていました。そして描写の中でも、キャラクターを感情移入の対象としてではなく、その振る舞いや体つき、肌から出る色気で視聴者や製作者を楽しませる存在として扱ったり、彼らを触れ合わせる事でさらに楽しむ、と言った様子に見えました。(二人が温泉で裸でいるところを拝む男性の描写もそういうスタンスの現れに思えました。このユリオ描写に対する指示もほんの一例かと思います)勇利とヴィクトルが親密になってゆき触れ合いが増えるところも、同性同士が近い触れ合いをしたり性的とも見える触れ合いをする事は差別される事ではない、という意味合いで出すよりは、過剰な接触、又は性的なものを感じさせる接触をさせて、「色気」を消費するために、彼らをモノとして楽しむ側面が多い気がしました。

特に彼らを客体(自分が性的に楽しむ/消費するもの)として扱う今回の場合は、同性同士の触れ合いを否定的な描写なく描く事だけでは同性愛の支持とは言い難いと思います。なぜならその触れ合いの様子や、触れ合いに対する作中での他のキャラクターの反応から、彼ら自身を(勇利やヴィクトルを)意思や愛情を持ってその行為に至った主体ではなく、そうする事で観客や製作者を喜ばせる客体として描く側面が強いと個人的には感じたからです。

登場する男性キャラクターは「感情移入の対象」ではなく「性的消費の対象」として描写されているようにうかがえる。

以前ユーリオンアイスの考察をされた方の一人が記事の中でこう仰っておられて、とても腑に落ちました。

(主体を与えないという話が分かりづらかった方は、もしあなたが誰かに「貴方が痴漢されるAVが欲しい」「貴方と横にいる人が手を繋いだり接触している様子に興奮するからキスしてみて、次はこんな風に触れ合って、こんな表情をして」と一方的に指示されてあなたは従うしかない場合、言ってきた人が貴方を、意思がありそれに基づいて自由に動く事ができる、対等な人間として尊重していると感じますか?)

そのため先生が仰った言葉が同性愛を差別しないという意味で発せられたものであっても、YOIの中で見られる(先生が「何かを好きでいること」と指した)同性愛の描写は彼らを性的客体として扱うためにさせている部分も多く含まれるため、十分に差別しているものであると思ってしまいました。本当に同性愛や多様性は何も差別されるべきではないという考えを反映して描くのであれば、よしながふみ先生の「きのう何食べた?」の様にその存在の性的消費を目的とせず、主体を持たせて描く事もできます。

また、「この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。」という発言は、勇利とヴィクトルの愛を好きでいることは批判させない、ファンを守る、そう言うニュアンスにも取れます。しかし、久保先生へのキャラクターや性的客体化へのスタンスや言動を見ると、先生が仰った「何かを好きになる」というのは、「同性でも愛し合う事」というよりも、その描写を好きに妄想して作り出す事、「人間を客体化して、色気や性的な触れ合いを自分達に供給して消費させてくれる存在として好きでいる事」(=性的客体化、人間を触れ合わせモノ化して楽しむこと) を誰にも否定させない という意味合いが強いと感じてしまいます。

そのため、ユーリ!!! on ICE は主体としてのLGBTの肯定に基づいて作成された訳でもそれを意図した訳でもなく、むしろそれらの愛を一方的に消費する対象として扱っており「何も差別しない」という考えに基づいたりそういう思想を支えようと作られた作品ではないと個人的には感じました。

さらに、BLが当事者以外の方に対し同性愛理解や支持への何かのきっかけになる事はあるかもしれませんが、BLを楽しむ、性的客体化して消費しつづける事は必ずしも同性愛をサポートしているとは言えないと思いました。(これはほんの一例ですが、「同性同士が恋愛している様子が好き」は彼らをLGBT当事者として主体性を与え尊重する事とは違うという事です。)


話は逸れてしまいますがユーリオンアイスは、前の記事にも書いた様にフィギュアスケートという素晴らしい題材を扱うという点でとても価値のある作品だと個人的には思っています。なので本来の個性があり自分の技術や関係を積み上げてきた選手を全て否定する様に他人の演技を丸ごとそのままさせたり、価値観や偏見の押し付け、選手を進んで性的客体化する描写、それを多様性への擁護だと謳う姿勢など、本編に見えた様々な点が続編や劇場版では改善されていると良いなと一ファンとして勝手に望みます。ただ本編通して、純粋にスケーターを尊重して描くというよりは彼らを性的客体化したいという久保先生の姿勢や嗜好を実現するための作品である意味合いが強いともとれたため、ミソジ思考などが内面化された傾向が強いとされる先生のバイアスや姿勢が変わっていない限りは難しい事かもしれません。

勝手な意見を最後までお読み頂きありがとうございました。