「みんな違って、みんな良い」のか?[49/100]
「みんな違って、みんな良い」の世界が理想だった。そんな世界になったらいいな、そのために私にできることって何だろうと思って日々仕事していた。つい最近まで。
「こうでなきゃ」という思い込みを捨てて、今の「そのまま」のあなたや私を認め合えたらどんなにいいだろうと思っていた。
そしたら、挑戦することや、失敗することへの恐怖心も薄れるかもしれないし、うれしいことを全力で喜べるのではないかと思っていたから。
でも、あるとき知人にこの話をしたら「みんな良い、ということであれば、急に誰かに言いがかりをつけられたり、殴られたりしても、それもOKなの?」と聞かれた。「攻撃じゃなかったとしても、電車の列に割り込んだり、映画館で歌いだすとかは?」と。
なるほど。そう考えると「あなたも私もそのままでOK」が通用するのは、同じような価値観、同程度の倫理観をもっていることが必須だ。もしくは「私には影響ないからOK」という、すごく遠い存在で、今後も関わることがないと思っている人かどちらかだ。
後者なんだとしたら、めちゃくちゃドライだ。「何でも良いと思うよ、私には関係ないから」ってことだから、好きの反対が嫌いではなく「無関心」と同じ理論だ。
今日のさとゆみさんの24時間限定公開エッセイの書き出しを読んで、「優しい」の対義語は「無関心」だと思った。
関心さえあれば、それがどれだけ余計で、不要で、不快な言動だったとしても、とらえ方次第で将来「あのときのアノ言葉がきっかけで、一念発起しました」みたいなことが起こりうる。すると、それは後から「俺のことを思って言ってくれた優しい言葉」みたいになる可能性がある。「優しい」かどうかの判断は、状況やとらえ方次第で可変するからだ。
だけど、「無」だと、何もない。「無関心」ほど怖いものはないんじゃないか。
そう思って、最近は「みんな違って、みんな良い」ではなく「できることを、できる人が、できるだけ」の世界観を目指している。みんなで、支えあって生きていきたい。
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