「携帯で写真を撮って」と言った祖父が私に伝えたかったこと[44/100]
ライターで編集者の堀香織さんが、朝日新聞の『それぞれの最終楽章』という連載に寄稿している記事を読んで、祖父のことをまた思い出したので、残しておきたい。
67歳で「多系統萎縮症」と診断された堀さんのお母さま。体を動かす機能が徐々に失われていく中で、出た言葉が上記だ。
この言葉から、写真家の幡野広志さんの言葉を思い出した。
「長く生きて」。
そう願う気持ちは、善意だし、生きる力にすらなるのではないか、と思っていた。
***
私の祖母は、64歳のときに若年性認知症と診断された。少しずつ症状は進み、日常生活に支障をきたしていった。料理上手だった祖母は、たくさんあった料理のレパートリーを忘れ、大好きだった歌を忘れた。
家までの道を忘れ、散歩に出たまま帰ってこれなくなり、警察にお世話になったことも数回あった。祖父は、そんな祖母と一緒に、自分の老いを感じながらも、なんとか一緒に暮らしていた。
祖父が倒れる1年ほど前に、2人目のひ孫を見せに祖父宅に行ったとき、急に「携帯で、写真を撮ってくれないか」と頼まれた。
「今日はまーさんが来るから、髪を整えた。洋服も着替えてくるから、ちょっと外で写真を撮ってくれないか」。
それを聞いて、私は「いいね、一緒に写真を撮ろう!」と喜んだ。
しかし、返ってきた言葉は「いや、そろそろ遺影を用意したくて」と言われた。
私はこれを「やだなぁ、そんなこと言わないでよ。ちゃんと長生きしてよ。ひ孫と一緒に旅行に行こう」などと言って流してしまった。
結局、祖父の願い通り、祖父の顔写真を何枚か撮影し、後日一緒にとった写真とともに現像して郵送した。
あのとき、祖父は「もうそろそろ人生を終えたい」というメッセージを発していたのではないだろうか。
堀さんの記事を読んで、幡野さんの言葉を思い出し、「祖父からのSOSだったか。私はあのとき、何かできなかったのか」とよみがえった記憶をもとに、悩み始めている。
家事になれていない祖父が、祖母に変わり家事をして、話が通じなくなる祖母と2人きりの生活は、どれだけ孤独で、つらかっただろう。
私が小学生のとき、まだ電話代がそれなりにかかった時代なのに、祖父は週に1回、1時間も電話してきてくれた。そしてそれが、私にとって幸せで、生きる力の源泉になっていた。
今時間が戻るなら、せめて週に1回、電話するのに。
ごめんね、おじいちゃん。大好きだったけれど、ちゃんと伝えられなくて。
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