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これからの時代に必要だと思う、「グラデーション」の思想(多様性編)
最近、男女とか先輩後輩とか仕事と遊びとかそういうものを、はっきりと切り分けることのナンセンスさを感じることが多い。
というか、そうすることで見えなくなるものが多すぎるのだ。
「多様性」やら「働き方」について議論するときに、最近ちらほらいろんな人の話の中で聞こえてきている「グラデーション」というワードが、個人的にすごく気になっている。
少し話が散らばりそうなので、今日は多様性とグラデーションの話にします。
いつからだったか、少し前から「グラデーション」という言葉が頭の中にあって、そうしたら去年10月に NEUT BOWL というイベントで、元WIRED編集長の若林さんが「いまメディアって、ZINEのような個人的なものとマスメディアと、両極端しかない。もっとグラデーションがあってもいいと思うんだ」と話していたのが印象的だった。
そのあと、HOTEL SHE, の龍崎さんがツイートでこの言葉を使っていて、すごく腑に落ちたんです。
私は、いまのところ男の人としか恋愛経験がないですが、それは自分に植え付けられた固定概念で男の人を好きになるべきだと思っているだけかもしれないし、今後女の人に恋をする可能性だってあると思っている。
女の子らしく振る舞うことが苦手で、ヒールはめったに履かないし、毎日リュックにスニーカーだし、昔から男の子と普通に喧嘩したりする。でも、スカートは履くし、赤いリップでテンション上がったりもする。
誰でも実際、男っぽいところ、女らしいところ(この女らしい男らしいという概念自体が間違っているとも思うけれど)両方持っていると思う。
同性が好きな人も、バイセクシャルの人も、ジェンダーレスな容姿だけど異性が好きな人も、その延長線上にいると思っている。性は本来、「性"別"」ではなく、「グラデーション」なのかもなあと。
人種・民族も同じ。
この動画は有名だから見たことある人も多いかもしれませんが、誰しも先祖をたどればいろいろな民族のDNAが混ざっているということが分かります。
私はどんな民族の血が流れているんだろう?と考えると、お隣の中国や北朝鮮、もしかすると中東やヨーロッパの人が、そんなに遠くない存在に思えてくる。
だから、特徴の異なる人を「マイノリティ(少数派)」と称して、特別な存在として「認める」という考え方の「ダイバーシティ」って、どうなんだろう?
少数派って何?ほとんどのことは、白黒つけられるものじゃないのだ。私たちが簡単に世の中を認識するために、便宜的に「言葉」によって分類されているだけ。
自分自身を含めた誰しもが、様々な軸の「グラデーション」の中にプロットされている曖昧な存在でしかない。そう気づくことこそが、”自分も他者も生きやすくなる世界”、ひいてはダイバーシティなるもののスタート地点だと思うのです。
単に、人類みな兄弟〜みたいなことを言いたいわけではなく。もちろん、身体的・文化的に違いはあって、便宜上男女や国籍を分ける必要はある。
ただ、ビジネスでも政治でも、ベースとしてグラデーションの思想が必要だなあと思っていて、それは、これからが「感情の時代」になっていくからです。
「感情の時代」。なんだそれ、聞いたことない。
いま考えた私の持論です。
働き方のグラデーションの話と、「感情の時代」についてはまた次に書こうかなと思います。