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「ワーク」ではなく「ファミリー・ライフバランス」なのではないか
ありがたいことに、たくさんの女性に会い、お話を伺う機会に恵まれた。
そこでまなび、かんがえたことを、これから少しずつ記録しておこうと思う。
ワーク・ライフバランスを追求した会社員時代
まずわたしは、「ワーク・ライフバランス」というものを大切にしてきた。
自己実現と理想の暮らしは、まさしくこの「ワーク・ライフバランス」がとれたときにこそ現実になると考えていたからだ。
それは、わたしが今まで身を置いてきた環境の影響も大きい。
わたしは仕事が好きだ。だから、仕事を辞めるという選択肢はなかった。
そして、前職は育休復帰率99%を誇る会社であり、母になって会社を辞めるのは稀有な存在だと断言できるほど、バツグンに働きやすかった。
働く母が多かったので、わたしは彼女たちの背中を見ながらここまで働き、そしてこの後もそれが続くだろうと考えていた。
だからわたしは、仕事のために家族(子ども)が犠牲にならぬよう奮闘してきた。「子どものために仕事をどのように効率化するか」がわたしの命題だった。
ワークがしたいけど、一番重要なのはライフ、つまり家族だ。だから、ワーク・ライフバランスをとらねば。
そんなんだから、見えてなかった世界があることすら気づかなかった。
それは、「ライフ」しかない世界、つまり専業主婦の世界だ。
「ライフ」しかない世界
わたしの学歴は、大卒だ。リーマンショック時だったが、友人はみな総合職や地域総合職として社会人生活をスタートさせた。
ちょうど「ライフ・ワークバランス」や「くるみんマーク」が騒がれた時代だ。母になっても働きやすい社風であることは、就活におけるひとつのベンチマークでもあった。
そんな勤労意欲の高かった彼女たちが、いかにして「ライフ」だけの世界に入っていったか。
転機は結婚・出産だ。今から8年ほど前、20代後半で結婚した友人のうち、子どもを産んでからも正社員で働いている子は、そうでない子に比べて少ない。
(書き添えるが、子どもを産んでいる人の絶対数が少ない。結婚していて子どもがいないか、結婚していない友人もまだまだ多い)
わたしは彼女らの友人で、とても大切に想っているが、だからこそ人生の深いところを話すことは避けてきた。
以下の記事で書いたように、わたしはたまたま夫が東京勤めであり、双方の実家も都内で、わたし自身働きやすい大企業に勤めているという幸運のうえに生活している自覚があったからだ。
では、友人たちはどうか。
彼女たちは子どもを産む際に辞めたのではなく、一度ワーママとして復帰してから、退職という道を選んでいる。
理由はさまざまだ。一番多いのが、夫の転勤。ほかにも、仕事が忙しいが実家に頼れない、身体が弱い、子どもに集中したい、などなど。十人十色だ。
そんな専業主婦の世界を、わたしは知らなかった。知ろうとしなかったし、知るきっかけもなかった。
「ライフ」だけがある、それで良いはずなのに、
仕事を辞めたらどうなってしまうのだろう。わたしの懸念は的中する。
これらの記事にあるように、わたしは不適応を起こした。
やりたいことを優先させたい。
「子の母」だけでない人生を生きたい。
育児はつまらない。家事はもってのほか。
誰もがわたしの時間を奪っていく。
そんな被害妄想にとりつかれていた。
ワークとライフのバランスが重要な現代において、ワークがなくなったのだからラッキーでしょ、と(社会に言われている気がするのも相まって)自分に言い聞かせてたのに、わたしの人生はちっとも良くなかった。
わたしたちが幸せである条件とは
ここで、冒頭に戻る。
タイの地で、いろんなひとに話しを聞く機会に恵まれた。
タイにいる駐妻は、基本的に専業主婦だ。
それは帯同ビザが就労を禁止しているためで、わたしたちは会話をせずとも、互いに「専業主婦である」ということを知っている。
この特殊な環境下で、わたしは毎日が退屈だ、仕事がしたいと思っているけど、この環境に馴染んで楽しめているひともいる。
かといって彼女たちが専業主婦であり続けたいか、というのはまた別の話。いまの生活に満足はしているけれど、仕事がしたいというひとがとても多い。
そんなひとたちに話しを聞いていると、あるひとつの考えが頭に浮かんだ。
わたしたちが幸せであるための条件は「ワーク・ライフバランス」ではなく「ファミリー・ライフバランス」なのではないか、と。
なにが人生の満足度を左右するのか
わたしは今まで、人生の満足度を左右するのは「仕事と私事のバランス」だと思っていた。まさに、拘束される時間=仕事と、自分の大事なものに費やす時間=家事・育児・自分時間という分け方だ。
ワーママだった頃は、この分け方に違和感はまったくなかった。
しかし、仕事がなくなったわたしを苦しめたのは、「ライフ」に内包されるものだった。
家事・育児と、自分時間の対立。どれも大事なことなのに、自分時間がとれなさすぎて、それ以外がすべて敵のように思えてしまった。
そこで気づいた。「ワーク」も「ライフ」のうちだ、と。わたしが好きでやっていたこと。義務なんかじゃなかったのだ。
では、わたしはどのように時間を使うべきだろう。やりたいことと、やらねばならないことをどのように配分したらいい?
たどり着いた答えが、「ファミリー・ライフバランス」だった。
男女ともに、家族に責任を負う必要がある
これは名案だと思った。なぜなら、ファミリーに対する責任は男女ともにあるからだ。
男の人だけがファミリーに対する責任から逃れられるなんて、許さない。わたしは燃えていた。それは、昭和のような働き方をする駐在員たち、そしてそれを容認、あるいは強要する本社に対する正義感……いや、復讐心のようなものだった。
わたしにだって、やりたいことがたくさんある。
仕事も、執筆も、いま手掛けている企画も、副業も。
でも、それ全部がまんして家事・育児してる。
だってわたしには、責任があるから。親になった時点で、ファミリーに責任を負うんだよ。
だから、専業主婦であっても「仕事がしたい」と思う。
家族が幸せであることに満足する一方で、社会とのつながりや、自己実現を渇望する。
100%ファミリーに集中してしまうと、自分の人生なのに「自分」がいないからだ。
だから、時間を「責任を負うべきもの」と「自分であること」に按分するのは良い案だと思った。
わたしたちはこれから、「ファミリー・ライフバランス」を追求すべきだ、と。
メンターである夫に話してみると
ここまで整理した内容を、わたしの旧来の友人でありメンターでもある夫に話してみた。すると、期待したものとは違った反応が返ってきた。彼が「んーーー」という枕詞を発するときは、たいていそうなのだ。
「んーー、それって、義務というか、なにを犠牲にしますかって話?」
稲妻が走る。犠牲……!
そうか、わたしは、わたしの人生を犠牲にしなければいけない時間を「ワーク」から「ファミリー」という言葉に置き換えただけなのか。
ファミリーを、一方的に搾取してくるTaker・悪い概念だとは考えたくない。
ここでわたしの考えは止まる。そして、まだ決着はついていない。けれども、ここに置いておく。
また、いろんな人に会う、ストーリーを学ぶ。そうしたら、少しは光明を見出すかもしれない。
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