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キャリアブレイク中な主婦の2025年の抱負

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

新年はじめての投稿なので、キャリアブレイク・専業主婦の今年の抱負についてお話ししたいと思います。


2024年は辛抱の年でした

おもえば昨年は変化の一年でした。

夫の海外駐在に帯同するため、大手企業を退職しキャリアブレイク期間に突入しました。
そこでわたしは、不適応を起こしました。


noteにはずっと書けずにいましたが、実は10月下旬に適応障害との診断もされました(が、薬を飲まずに一か月あまりで良くなりました。いち早く病院にかかったこと、夫に本気で相談するきっかけになったのが良かったのだと思います)。

来泰してからわたしはいつも気がせって、「何かしなければ」「本帰国までにスキルをつけなければ」と頭の中をタスクリストでいっぱいにしていたのです。

専業主婦なのに子どもと遊ぶのすら苦痛で、そんな自分が許せなくて、今考えればつらい一年だったように思います。

🔽その時の逡巡はここに置くようにしています、良いも悪いも、記録用。



そんなわたしの心の支えは、年末年始に予定していた、タイに来てから初めての日本への一時帰国でした。



「現状に満足してはいけない病」にかかってる

あれほど恋焦がれていた日本ですが、実際にその地に足を踏み入れると、わたしはなにをあんなにここに執着していたのだろう? と不思議になりました。

そこで気がつきました。わたしは「現状に満足してはいけない病」に罹患している、と。


大学卒業してなにやってんだか。毎日プラプラしてお金を浪費しているばかりで。なんてなさけない、「これだから駐妻は」と言われてしまう、いや、言われて当然なんだ。だって事実なんだから。


ずっとわたしを痛めつけていたのは、夫の海外転勤でもなく、誰も助けてくれない環境でもなく、ちゃんと復職できるか不安に思う資本主義万歳な自分でもなく、「ただありのままのわたし」だったのです。


これは、衝撃でした。なぜならわたしは、自分のことを「善い人間」だと思っていたからです。


わたしは善い人間なので、他者に寛大です。
善い人間なので、数値以外のモノの測り方を知っています。
善い人間なので、余裕もユーモアもあります。


そんな「善い人間」であるはずの素の自分が、陰で「なにも生産していないバカ」とわたしをいじめている。
いじめられたわたしは、なにかしなきゃと未来にばかり目を向ける。

子どもと遊ぶ時間がもったいないと感じる。なにも努力していないくせに、いまの環境を楽しんではいけないと考えてしまう。

そういう自分に気づいたのです。


少しくらい不幸な方が居心地が良かった

もろ手を挙げて「わたしはしあわせです」と宣言するのが忍ばれる。わたしにはそんな感覚があったのです。

それは、「唯一無二の地位への到達こそがゴール」というモーレツ昭和・平成時代の名残ではないでしょうか。

しあわせの形は決まっていて(例えばお金がある、時間がある、地位の高い職につく……)それに向かって全員が努力しており、人間はその、全員に共通するゴールに「到達した方」「到達できなかった方」に二分されるのだと無意識のレベルで価値観に刷り込まれていたのでしょう。

全員に共通するゴールなので、「到達できなかった方」から「到達した方」へのやっかみは当然にあるものだと考えていて、わたしはその罵詈雑言が恐ろしかった。

さらに、「到達した方」が感じる幸せは努力があってこそなのに、なんの努力もしていないわたしがお金に困らず、時間もたんまりあるなんて許されるはずがない。

「到達した方」が住む城のテラスより見下ろせる街からは、民衆の怒声が聞こえる。「お前らに能力なんかない、たまたま幸運だっただけなくせに!」ひときわ大きな声で苛烈に訴えかけているのは、あろうことか自分自身なのです。

わたしはびっくりして、逃げるようにテラスを去ります。するとそこには自分よりももっと領地のあるひとが待ち構えていて、口元を歪めて言います、「この程度で満足しているの?」「何もできないくせに、この夢から醒めたらどうやって生きていくつもりなの?」と。

「到達した」と思っても、上を見ればキリがない。みな同じゴールに向かっていたら、本当のゴールにたどり着けるのは一人だけなのは当たり前です。

だからわたしは、ちょっとだけ不幸なふりをしている方が居心地が良かった。



「仕事ができないからつまらないよ、キャリアの分断で周りからは置いていかれるし」

「お金も自由には使えないからさ~」

「あまり遊んではないかな、英語の勉強とかキャリコンの活動してるよ」



「ありのままの今がしあわせ」なんてちっとも思えませんでした。



愛おしい「わたしのくらし」

1月に入ってタイに戻ってきました。不思議なことに、以前とは違う感覚がありました。

日本だろうがタイだろうが、決定的に違うことはない。
ちょっと言葉や文化が違うだけで、「わたしのくらし」であることに変わりはない。
タイだからだとか、日本じゃないからとか、決めつけなくてもいい。もう少し肩の力を抜いてみよう。


そう考えると、自然と「もう少し、いまを楽しんでもいいんじゃないのかな」と思えてくるのでした。

確かにわたしはなにも生産していないし、キャリアのタネになるようなものも持っていません。
ダメなところも弱いところもあります。それと同時に、良いところもあります。

日本に帰ればまた前の会社で働けるし、そもそもわたしは人生を良くするためにがんばれる人間なのです。
だから、今まで通り生活していたら必ず道は開ける。だって今までそういう風に生きてきたのだから。

そして、そもそも、「あのひとはゴールに到達できなくてかわいそうな方」と一方的に判断するなんて失礼です。

ゴール、いいかえれば、しあわせは多様化しており、ひとそれぞれ違います。また、到達したいと考えるひともいれば、たゆたっていたいと感じるひともいます。

わたしのしあわせは、一貫して「愛するひとたちと過ごす」こと。であればいま、わたしは「しあわせ」なのでしょう。


🔽おなじようなこと書いてる



2025年の抱負は

長い2024年の振り返りを読んでいただきありがとうございます。
さて、次はいよいよ今年の抱負です。

今まで述べてきた通り、わたしは常に「現状に満足してはいけない病」にかかっており、そのせいでイライラした毎日を過ごしていましたが、2024年末になってようやっと治療法が見つかり、いまは加山雄三ばりに「幸せだなァ」と思える程度には回復してきました。

これはひとえに「いろんなことがあるけど、今はいい感じ」と思えるようになったからです。


①リアルの生活を充実させる

では、なにがわたしにこの考えをもたらしたのでしょうか。
それは、「リアルを充実させたこと」一点につきます。


実は年末年始の半月ばかり、ネットやSNSを一切辞めていました。
(ただしくは、触る時間がなかった)

そうしたら、わたしを弾劾する言葉も聞こえず、わたしの凝り固まった考えをさらに増幅させるエコーチェンバー現象にも触れずに……こういう状態を「凪」とか「すこやか」と形容するのだと思います。

わたしはただ、親戚や友人など、愛する・居心地の良い人と語って、その人の考えに触れて「色んな幸せがある」ことに本気で納得していたのです。

そして、人との会話を通してわたしは自分のことを「努力ができる人間だ」と思えるようになっていました。

これは、愛するひとびとに「あなたは努力家だよね」「真面目だよね」と言ってもらえたからでしょう。


去年までのわたしは「何者かになりたい」と願い、リアルでは叶わないと諦めてネットに活路を見出し、「フォロワー○人」とか「副業の収益○円」とか、そんなことを目標に掲げていました。

それでわたしの生活はどうなったかというと、苦しくなるばっかりだったので、今年はそういう目標の立て方をしません。

何者になれなくてもいいから、2025年は、リアルの生活を充実させてみます。


🔽これも同じようなこと書いてるなぁ、すぐ忘れる



②いま本当にやらなければならないことだけをやる

わたしはすぐに邪念にとらわれる弱い人間です。
だから、もう一つ抱負を掲げました。それは、「いま本当にやらなければならないことだけをやる」です。


これは、今Amazon Audibleで読んでいる「後悔しない時間の使い方」という本からヒントを得ました。


わたしは先々のことまで計画して、TODOリストをたっぷり積み重ねるタイプです。
そうすると「あれもこれも考えなきゃ」「全然対策できていない」といっぱいいっぱいになって、「やっぱりわたしはダメなヤツだ」と無意味な自虐をしてしまいます。


この本では、

  • 今日一番成し遂げなければならないことは何か

  • 本当に必要なことか、それとも気持ちよくなるためにやっていることか

といった視点で「なすべきことに集中する」というエクササイズをいくつか紹介しています。


まさにわたしは「あれもこれも」人間で、それが「未来のためにがんばれない自堕落な自分」という自己像を作り、そんな自分を叱咤するように鼻先にニンジンをぶら下げお尻をムチでたたき、妄想の「共通のゴール」へと走らせていたのです。

だから、2025年は、いま一番やるべきことだけをやることを意識して行動してみます。


2025年末にはどんな自分になっているのかな

わたしの2025年の抱負は、以下の二点です。



  • リアルの生活を充実させる

  • いま本当にやる必要があることだけやる



かなり抽象的です。仕事をしていた時は「定量的であること」「誰が読んでも理解できるゴールであること」が正しい目標設定の方法だったので、その視点からみるとこれはダメな目標の典型です。

でも、だからこそ、わたしには新しい、チャレンジしがいのある目標です。


なんてったって、キャリアブレイク・専業主婦になってからはじめて迎える新年の抱負だもの。

「なにもしていない情けない自分」から「限りあるキャリアブレイクを過ごす自分」へ。

前々から提唱している、居心地の良い環境にいる自分=自分らしさを称えながら、愛するひとびとと共に過ごす、愛おしいわたしのまいにち。

そんな想いで胸がいっぱいになるような2025年末を過ごせるように、日々を生きていきます。


余談ですが、このnote書くのに2時間かかっちゃった。今年はもうちょっと筆を早めたい。


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まみ┆元管理職、キャリアブレイク中
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