分かり合うとは
むかしむかし、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山に芝刈りに出かけ、おばあさんは川に洗濯に出かけました。
こんな昔話を聞いた子供たちの頭の中には、どんな世界(イメージ)が浮かんでいると思いますか?
むかしむかしは、どれくらい昔?
住んでいる家はどんな家?
おじいさんとおばあさんの顔はどんな顔?
どんな服を着ている?
その時の空の様子は?
おばあさんは何を洗濯している?
そう細かく聞いていくと、子供たちがそれぞれ全く違うものをイメージしていることがよく分かるはずです。
同じ言葉でも、それを聞いて思い浮かべる世界がその人の数だけあるということを、どれだけの人が意識して日々会話しているでしょうか。
自分が当たり前に思い浮かべるそのイメージが相手にも浮かんでいるとは限らないということです。それはママと小さな子供も、です。
嬉しいね
楽しいね
幸せだね
寂しいね
怖いね
悲しいね
人が感じている気持ちの深さだって人それぞれです。それを目で確かめ合える秤は、残念ながらこの世には存在しないから…
選んだ言葉が、悪気はないのに人を傷つけてしまったり、またはそれに傷つけられたり…
そんなことも、見えている世界の違いから生じると言えるかもしれません。
それぞれが見る世界は、生まれ持った性格や個性、育った環境、それまでの経験や出会った人たち、様々な要因から作られるものです。
むかしむかしが縄文時代でも江戸時代でも、おじいさんが40歳でも90歳でも、どれもそれぞれにとっての真実であり、間違いは一つもありません。
縄文時代なら洗濯しているものは鹿の皮で作った布でしょうし、江戸時代であれば麻で作った布。
40歳のおじいさんであれば刈った芝は大きな籠から溢れるほどでしょうし、90歳なら両手に収まる程度かも…
このように、たった一つのイメージの違いが、その先の答えや選択の違いを生んでいくということ。
それを知ると、人との関わり方がちょっぴり変わってきます。
伝わらない
分かり合えない
共感できない
伝えたいのに、分かり合いたいのに、共感し合いたいのに悩んでいる人がいるのなら、お互いが抱くイメージや世界を確認し合うことが第一歩です。
冒頭の昔話で、子供たちにどんなイメージを持っているかを問いかけたように、あなたは今何を見て話しているのだろう、聞いているのだろう、そう相手の目線に立ってみるのです。
小さな子供でも同じです。すでに立派な世界が広がっています。
自分とは違う相手の世界を知った時、
あなたの世界も素敵ね
でも私はこんな世界を見ているの、こっちも素敵でしょ?
そんなふうにお互いを認め合うことができたら…
それは本当の意味の、共感し合う、分かり合うということなのではないでしょうか。
同じだからではなくて
認め合えたから嬉しい
同じ真実や世界を見られないことに悲しみや孤独を感じるのではなくて、違いを認め合える喜びを、お互いが受容して共存していく奇跡を感じていたい、今日はそんな私の想いを伝えてみようと綴りました。
長い文章を、最後まで読んで下さりありがとうございました😊