6月13日 値上がり考。ミニマムマストは心を静めてとりあえず買って、あとは忘れるしかないかな。”買って応援”にむかつくのは僻みかルサンチマンか。
昨日はミニマムマスト、という考え方についてちょっと書いた。
エッセンシャルマスト(重畳語??)と言ってもいいかもしれない。
必須で必要。ほぼ同じ意味ではあるが。
日々の食品値上がりが顕著である。最近私はほぼ外食をやめたのだが、ガマンし始めたころは店の前を通るとなんとなくミジメな気持ちがした。
だが次第に慣れてきた。
いまや飲食店は自分には関係がないところでござんす、的な気もちになってきた。
たまに聞いてイラッとすることば、”買って応援”である。
いや、実際買う事で応援にならない、というわけではなく、広く呼び掛けることで呼応する人がでて、応援になるだろう、とも思っている。
思ってはいるのだが、イラッとする。
どうやら以下のように感じるからのようだ。
1.私は買う事にハードルがない(心理的にも、資産的にも)、というマウント感を感じる。
2.大きなお世話、と感じる。
3.自身が買うことへの都合のいいいいわけにしているが、あたかも”残念な他人”を”啓蒙したろか”というような体裁をとっている。ここには鼻持ちならない偉そうな(まあ、マウントだが)意識が1ミリ位は最低でもあるような気がする。こういう意識を偽善というのではないかな。所詮自分が買いたいためだけやろ。
以上だろうか。
私は子供のころより”偽善”というのがメチャ嫌だった。それを誰かの言動に感じると(いや、それはもしかしたら偽善ではなく、心からの言葉かもだが、そう感じる言葉を発するのに躊躇ない、という心理状態が垣間見えることに)その人が途端に嫌いになったり、”底の浅いおっさんやな”と思ったりした。
(因みにこの”おっさん”は対女性や動物などにも使う、いわば”便利な3人称”である(@関西あるいは@我が家)。時に親近感や仲間意識、身近な感じで使っており、むしろいい意味で使っていた。そしてその言葉が一般的に”品が良くない”ところも気に入っていた(偽悪⇒偽悪は好きなのだ)。上記はまあ、あまりいい意味ではないが⇒身近なものに対する使用例:飼っていたマルチーズに”かわいいオッサンやなー♡”と言って撫でまわす、etc)
あ、このetcという言葉、最近あまり見ない気がするが気のせいですかね。消失語???
で、値上がりの話だった。値上げている企業は別に慈善事業ではないし、原料・燃料費の値上げで商品価格に反映せざるを得ないことは頭ではわかっている。
だが、そうした値上げ企業や、それを売っているスーパー(まあスーパーしか行かないので)にぼんやりした怒りを感じていた。
しかし考えてみれば“怒り損”、怒って自身のストレスにしているだけなのだ。
つまり怒っても値段は下がらないし、自分に損なだけ。
であれば、地域でいつも一番安いところを見極めておき、そこが値上がりしても、念のため2番目に安いところの価格はたまにみながら、
値上がりに対するストレスは意識して鎮めてただ買う、エッセンシャルなものをただただ買う、というのが一番いい気がする。
買わないで健康被害に陥る(言い方変??)のが一番自分自身にとって損である。
私の例でいけば、米(玄米)、卵、納豆、プロテイン、もやし、バナナだろうか。
これらはもう底値近辺で買えたら、もう忘れる。値上げボケー!といってもなにも変わらない。
そういう方向に行こうと思っている。
もちろん今や贅沢品なオリーブオイルや、不作だと聞くコーヒーなどは厳しくなってくるだろう。だがまあ、なくてもいい。オイルなければ煮ればいい。コーヒーなければ、水道水と塩とか?(夏)
タンパク質摂取量や必須ビタミン(そんなのある?)などには、とことんこだわって行こう、と思っている。
オレンジ、キウイはもう買うのをやめた。ブルーベリーもチョコもやめた。
ビタミンは錠剤で補給することで、すこし心の平安を得ている。
この前米やに行ったら、安いコメが売り切れ。
結局皆さんエッセンシャルマストに回帰してきているのだろう、と
しみじみ思ったのだった。
(じわじわ心配にはなりますねー)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。