6月23日 ダメな自分も自分とみとめよう。ゲド戦記(映画版)をみてアルターエゴや吾郎さんの苦しみを斟酌してしまうことについてなど。
勝間さんYOUTUBEでこれまた刺さった言葉である。
無意識に、「うまくいった自分が本当の自分で、失敗した自分は忘れてしまいたい本当ではない自分」と思っていたことに気づいた。
だが、いいのもわるいのも、合わせて自身である、として自分を統合してあげることが必要である。そういわれてなるほど、と唸ったのだ。
不評、といっていい宮崎吾郎氏の「ゲド戦記」であるが、私は非常なるシンパシーを持っている。自身がもし宮崎駿の子供であったのなら。アニメージュでナウシカの圧倒的な画力(しかも宮崎氏は絵描きとして東映動画に入ったわけではないのだ!)を見て、「こりゃアカン」と思った身としては、身近にそんな人がいるのはたまらんとしかいいようがない。
なんどもこの欄で書いているが、吾郎氏が描いたドラゴンの絵はよかった。あれを見たとき、「吾郎さん、やったね」という気になったものだ。
だが、絵を動かす能力でいけば、駿氏は間違いなく人類史で5本の指に入るであろう。対抗できるわけがない。
話がずれたが、ゲドではアルターエゴ?言葉があやふやだが、自身のダークサイドが目に見える「影」として提示された。そして最終その影、もちろん自身が認めたくない部分と和解し統合したとき、人は完全に生きることが出きる、というメッセージを個人的には受け取った。
原作者のアーシュラ・K=ル・グインがもやもやした表現ながら「お父さんでなく息子さんで残念」というメッセージを出さざるを得なかった意味はよくわかる。駿氏が映画化すれば、ゲドはトトロ同様、世界に広がっていただろうから。
だがこれも運命。駿氏が自身で作ろうと思ってル・グイン女史にオファーしたとき、ル・グインのもとには同様のオファーが来すぎており、自身もトトロにいまだ接していなかった、ということなので、仕方がなさすぎるであろう。
普段、いろいろな出来事に対して、ノーコントロールで出てくる感情はエゴからのものなので、だいたいが残念で残酷で実もふたもないものだ。
こんなことを想う自分はダメな人間だ、
ということを(深層心理で)想い続けるわけである。
だが、その思いそれぞれに対峙し、「どうしてそう思うのか」「そう思う自分はもちろん認めたくないが自分であり、認めて統合しよう」「そしてそののちエゴではなく理性でどう思いたいかを考えよう」という事でやっていくわけである。
思いを放置しないで、きちんと対峙する。
そういう言い方に、なるだろうか。
(本当に宮崎駿氏の画力は当代一番だと思っています)