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日記4月18日(日) #日記 恩師。

生まれ故郷から、遠くはなれて、というほどではないが離れて暮らしているので、めったに母校に行くことはない。同窓会も、行っていない。

だが学生時代のことは、最近よく思い出す。電車に一日合計4時間近く乗っていたので、窓を全開にして海を見ていたことなどが主なのだが、もちろん学校でのことも思い出す。

中高一貫の学校だったので、先生とは6年間のお付き合いであった。学年と共に持ち上がる。中学校は3クラス、3人の先生が、いた。

同窓会会報がたまに届く。一人の先生の訃報が載っていた。

先生に担任になっていただいたのは、合計1学期だけだったと思う。高校の時文系クラスと理系クラスに分けるのだが、会社員になるには理系が有利、という個人的な印象があり、得意科目は国語と美術(高校からは科目がなくなったが)であった僕は、”得意分野でそのままいきたいのだが、行ったら就職できないだろう”という昏い推測から、やけくそで理系クラスを選択した。

そうではないか。国語好きなら国語教師、美術好きなら美術教師。もちろん才能があれば小説家にも画家にもなれるだろう。だが当時はどちらもヤマ師、まっとうな職業ではない、とされていることは自身で感じていた。そして祖父は父方、母方ともに教師。その息子と娘である我が両親は、”先生はおすすめしない”という雰囲気であったのだ。”めっちゃ貧乏やで”ということなのだ。

そして僕は教えられるのは別にいいが、教えることは出来なさそうだ。先生、とはめんどくさい運動系のきつい人々を人格でもって管理しなければならない。それらの人々とうまくやるのに神経をすりへらしそうなのに(中学高校では、とにかく体を鍛えて舐められない、がひそかな方針)とても一生の仕事にはできないだろう。オタクでびびりな僕には、先生なんてとんでもない。小学校教師??僕はカナズチだ。大学の先生というものはどういうものかはわからないのだが、相当高い知能がないと無理だろう。

消去法でいけば、自分の好きな教科をいかして就職することは困難だろう。であれば数学は全くわからないものの、理系でトライするしかないではないか。

そんな”内面の悶え”の結果として理系クラスに入ったのである。

悲惨であった。数学はまあ60点か70点くらいだが、物理が全く、100%わからない。考えようとするが、まったくなにがなんだか、理解できない。祖父は物理の先生だったのに!

どうやら遺伝、というものはあてにならないようだ。まあ母方の祖父は英語やフランス語を教えていたというから、そちら系、ということかもしれない(その後大学の授業でフランス語を選択したら、0点であった。やはり遺伝はあてにならない。因みにフランス語の回答用紙にも全力全問回答記入)。

全力で書き込んだ物理のテストで40点未満(年間平均で40点未満が2教科あると落第する)を取って、僕の心には妙な安心感があった。”やっぱりだめやった。やるだけのことはやった”。

自分は理系ではなかったのだ。

1学期の試験(物理で欠点=40点未満)の終了後、僕は文系クラスへの変更を申し出た。先生方も”おまえはそうやろな”という感じだったように思う。

その時理系クラスの担任の先生が、物故の報を今回会報で見た先生である。

数学の、先生であった。本音で生徒にぶつかってくださり、まとまらず問題が起きたときにはブチ切れるのが怖かった(普段は温厚なのでより怖い)こともなつかしく、思い出す。ありがたかった。

生徒は、先生の、本質に触れる機会を持つ。ありがとう、ございました。

(良い先生、ばかりでした)

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豆象屋
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