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日記6月4日(金)。 #日記 先達。
銅版画を始める前は、いわゆる美術の世界というものは全く知らなかった。
美術の世界、というより、どのような形で作品を作り、どのような形で発表をおこなうのか、あるいは行わないのか。
こうしたことは、実際に製作者、あるいは関係者としての修行を積み(美術系の学校や、画廊勤務、あるいはオークション勤務等)、他の製作者との交流なども経て現状がジワリとわかってくる、という感じに、私の場合はなっている。
勿論ただ孤高の世界で、ただただ絵を描き続ける(例えば高島野十郎のように)、という生き方も考えられる。これはいわゆる”天から賦与された”という本来の意味での(ともすれば”上手い””人より抜きんでた””技術がある”という限定された意味に矮小化されがちな言葉である)”天才”を、画才、絵を描く能力(目から情報を得、あるいは五感から感じ、あるいは魂から感じる能力)として得た人にとって、それ以外の例えば”絵を売る””絵に関係する職業につき、絵を描く以外の仕事をする”という行為は、不必要でやりたくもない行為でもある、ということを考えさせられる。
純粋に絵を描くことだけを追求する人生。それはあるいは苦悩にまみれ、画材や絵筆をふるうための体力を齎す日々の糧さえにも事欠く、いわば“絵乞食”のような人生なのかもしれない。”絵乞食”=”絵聖”。そうなるだろう。純粋無垢に希い続ける。
だが、そうした生き方にはあこがれる。そして、実際の生活は別にして、魂はそうあるべき、と思う。そうでなければ真の美をただ偶然にわれの手をへて召喚することは決してできないだろう。
真善美、の魂の奴隷。あるいは巡礼。
創作者はそうあるべきだ、と勝手に、個人的に、思っている。別に人にそうあるべき、と問うことはないし、必要、ないのだが。
そんな風に思うなか、そのような思いを同じく持って、先に”たまたま”生まれ、”たまたま”過ごしていた先達として、示して頂ける方々。これが”先生”と呼ばれる存在だ。
漢字を読めばわかる。”先に””生まれた”。
つまり先に”同じ思いで”、生まれ進んでいるものが、
文字どおりの意味で”後に進む”同じ思いのものへ
自らが辿ってきた思いを呟き、それを後進が”味わい”そしてもしかして魂で”感じて”、”考える”。
これが、先生と生徒、というものなのだろう。
私はいわゆる”美大”や”美術系専門学校”というものに、全く縁なく生きてきた。
だが一私人として、”工房”の、そして”教室”の、門をたたく機会を得た。
昨日東京時代に属した工房の、1年半毎に行う展示に参加した。20回目となる。1997年に開設された工房である。既に20年以上の歴史がある。
主宰される蒲地清爾先生が、2013年より会員への工房の月次予定表メールに添付されたメッセージをまとめた冊子を昨日受領した。
毎月のメッセージを読み返して(さらには入会前のメッセージも読むことができて)さまざまな思いが去来した。
2014年12月のものから引く。
スポーツの世界しかり、芸術の世界しかり。皆さん意識される事はないだろうが、特に芸術の世界は今まで存在しなかったものを生誕させるという事において(創造主)、神の世界に近いのである。
この事実にして、実はほとんど意識されない思い。これを改めて示して頂けることのありがたさ。
先達、そして先生、というものは、こういう方のことを、言うのでであろう。
(ありがたいことです。)
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