9.22 小野小町と片山廣子。
明日の引っ越しの準備。天気がイマイチのようだが仕方がない。
昨日は新勤務先への挨拶。noteは優雅に新幹線の中で、と思ったが、思いのほか環境がイマイチで疲れた。気温があまり上がらなかったからか、冷房があまり効いておらず、若干酔った感じもあった。やはり移動よりは落ち着いたカフェなどで書くのがいいのかもしれない。
通常勤務だと今は昼食を食べない。大体水を1リットルくらい飲んでフリスクを食べながらトレーニング、というのが最近のスタイルであった。勤務が安定していればそういう生活となるのだが、最近は引っ越し準備やらなんやらでルーティン通りに動けない。昨日は和光のエビフリャー弁当630円にカキフライ200円x2を奮発して1000円ちょっと。まあ、列車移動の時くらい、と思ってのことだが、今朝の体重はてきめんに64.8kg、体脂肪率13.2%となった。あまり気にしすぎてはいけないが、なんとなくこの数値をみるとどんよりする。
新しい生活でも、うまくトレーニングを取り入れないといけない。昨日も1万歩は歩いているのだが、やはり体重は増えていたのだ。
さて、最近はずっと片山廣子片山廣子と騒いでいるのだが、なぜなのかというとやはり彼女が希求したと思われるアイルランドの歴史に息づくファンタジーの所為だろう。昔から翻訳時にはダンセイニからくる団精二名義も使用している荒俣宏氏が好きなのだが、ハヤカワファンタジー文庫の初期のものでダンセイニの「ペガーナの神々」がある(こちらは逆に荒俣宏名義での翻訳である。確かにダンセイニを団精二名義で翻訳しては混乱するだろう)。
私が片山廣子を知ったのは、松村みね子名で翻訳出版された「かなしき女王」沖積舎版を読んでからだ。とにかくその香気あふれる文章にノックアウトされた。なんと大正期の翻訳としり、二度ノックアウトされた。微塵も古さを感じない。私は英語の本を人生で1冊も読破したことがないが(笑)、多分この香気は原作のすばらしさもさることながら、翻訳者の資質も大いに影響しているだろう、と思った。で、翻訳者について調べていて行き当たったのが片山廣子である。
私は私の嗜好(絵の傾向や好きな物語の傾向)が近い人と出会うと、なんというかばらばらになった一族と出会ったような感じがして、嬉しくてしかたがなくなる。外国で日本人と出会った時の気持ちとすこし似ている。今は結構メジャーな趣味と言えるかもしれないが、ファンタジー好きは子供のころ周りにほとんどいなかった。
今考えると、一人ですきなものをチェリッシュしながらいることは、卵を抱く親鳥の状況にそれこそ似ている感じで、一人で泉を深く掘る感じもして悪くはない。生半可な感動を人と分かちあうより、一人で何度も何度も反芻することで、より深い味わいが得られるとも今となっては思う。だが当時は寂しかったのだ。
なので、とにかく好きで訳しているとしか思えない松村さんこと片山廣子のことが、気になってしかたがなかったのだ。
よろこびかのぞみか我にふと来る翡翠の羽のかろきはばたき
わが指に小さく光る青き石見つつも遠きわたつみを恋ふ
我が世にもつくづくあきぬ海賊の船など来たれ胸さわがしに
第一歌集「翡翠」より
待つといふ一つのことを教へられわれ髪しろき老に入るなり
動物は孤食すと聞くなり年ながくひとり住みつつ一人ものを食へり
わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのりんご卓の上に置く
第二歌集「野に住みて」より
清水麻利子氏の「片山廣子短歌研究」で挙げられている廣子の代表歌各3首である。歌集翡翠(かわせみ)は、1916年、大正5年の刊である。年表では廣子38歳、このころ鈴木大拙夫人ベアトリス(廣子と同年生まれ、因みにダンセイニも廣子と同年に生まれ、同年に亡くなっている)の指導でアイルランド文学はじめ翻訳に取り組んだ頃とある。
亞苦陀の筆名でのちに廣子と軽井沢で親交を結ぶ芥川龍之介が「新思潮」へ歌評を書いている。一般には心の内を吐露する際浪漫の色付けの濃い初期短歌より、自然な心の内を詠む後期短歌を良しとする評価もあるのかと思うが、個人的にはけれん味ある例えば「海賊」の短歌などは素晴らしく大好きである。けれんとははったりのことであろうが、はったりのどこがいけないのだろうか。
なんというか、時代としては女性として働く道が「教師くらいしかない」時代であり、良家の子女として結婚して「夫人」と呼ばれる道しかほとんどなかった時代のひとである。一方でその流れに抵抗する与謝野晶子やら白蓮やらがごく身近にいて、廣子自身の複雑な思いを感じる。そんな後期歌集もまた、なんとも味わいがある。自身の老いへの気持ちを、その容色故に東北から女官として宮廷に召されつつ、容色が衰えたことで、故郷に何も持たずにいわば自身を消すために「戻る」道で餓死したともいう小野小町の想いの中に凝視している。
容色が衰えたらお払い箱なのかっ
そんな怒りを感じるのは私だけであろうか。
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
我が身を悼む。我が花を、花の色を悼む。
(色、とは、花の色、とはなんなのでしょうか。。。)