4月9日 地位財とその中間、あるいは代替について。
地位財というものがある。
豪邸、クルーザー、高級車、高級な品物の数々。
あまり好きな言葉ではないが、トロフィーワイフ、あるいは(若い)燕などという言葉もある。
で、それを「地位財」と言い切ってしまうと、そのものを求めることイコール悪、のように考えてしまうことになる。
だがなんだか違和感がある。その違和感とはなんだろうか、と考えていて、
「本来その物(者)がもつ、費用を惜しまず入手したい、と思わせる魅力」のことを、ただ金でしか買えないものであると限定しているからだ、と感じたのだ。
そうであるものと、そうではないものがあるだろう。
これは入手する側の心の問題であるからだ。
その物を、「他人に自身の財力や地位を知らしめる」ために入手しようとする心とは、すなわち例の「エゴ」、すなわち「人と比較する地獄」の産物である。
人との比較は際限がない。永遠に一番、ということはないのだ。そのことをみんなが魂ではわかっているので、それをアピールする心を「さもしいもの」と感じるのだろう。
地位財を求めるものはすべからく心根のさもしい奴だ。そう思うので、「地位財」そのものも微妙なものだと感じるのである。
だが、そもそもその「地位財」が稀有の、得難いもの、と認定されるには、そのもの本来が持つ魅力、が不可欠である。
だがその魅力もまた、「最高」であり続けられないという点も、エゴの香りが漂うのだ。
豪邸はより素晴らしい豪邸がある。高級車はより高級に、容色はよりよい容色がある。
そこの儚さがあるのに求めるこころがさもしいのだが、その「地位財」自体もなんだか哀れな部分がるだろう。
さもしさと哀れのコラボ。だから地位財は微妙なのであろう。
しかし、その物(者)本来の魅力を直視し、愛でることは可能である。
豪邸なら、自ら手をかけて手入れをすれば「わが豪邸」に。
高級車ならまあ、型落ちでもいいし、類似車(ミニではなく、スズキの軽の類似車とか)でも、まあ、いいじゃないか。
高級時計なら、デザインをまねたSEIKO 5だってある。
トロフィーワイフや燕は、相手がそもそも「あんたの金のためにいるよ」というメンタルなので、人としての魅力は場合によるだろうが微妙だ。やはり内面がきちんとしつつ、容色のすぐれた人のほうが、そこは代替どころか「より素晴らしい」。
つまりは、「地位財」を「地位財」たらしめている「美」や「良き点」をしっかり把握、理解し、みずからのできる範囲で、代替でなくてもいい、「自ら納得した」美や良き点を、もとめていこうというマインドがあれば、
いいのである。
「地位財」の安易さを超えて、真の「ディレッタント」で、あらねばならない。
(目指すべきは「真実」と「美」のあくなき追及者、でしょうか)