11月17日 従順つづき。エックハルトと禅とか知足とか。
従順こそは至るところにおいて一切の事物に最善の輝きをあたえ、決して迷うことなく、ひとが真の従順よりなせし一切の事を無欠なもの完璧なるものたらしめる。それは善きものを逃さないからである。従順こそは一切の思い煩いを不必要ならしめ、いかなる善にも不足しないのである。
P.16 神の慰めの書 マイスター・エックハルト
(講談社学術文庫)
善きものを逃す。
そういう指摘が上記の引用分からされている。従順、という態度、生き方は確かにすべての事物を慎重に、敬意をもって行うあるいは接する、ということにつながるだろう。
そしてそうであればその時の「我」にはすべてを慈しみ、慈悲と理解をもって眺める「眼」が発現するであろう。
それこそが、従順による果実なのである。その慎重で注意深い眼、そしてそれを行使する「従順であること」をルールとする自我があれば、なるほど「善きもの」がベールを自ら脱いで、至る所にその姿を見せるであろう。
日々を歓喜まみれで過ごす。
いや、こう書くと、能天気を超えて、あなた大丈夫ですかレベルの発言のようにはなるが、強制ではない自発的な「従順」を意識して生きることで、多分いろいろなところから喜びを得られるであろう。
これは多分、「知足」と似たニュアンスではないだろうか。
足りることを知る心は、慎重で注意深く、慈悲深さを秘める心にもなろう。
例えば禅で、一歩一歩あるいていることに心を至らせることや、一息一息により上下する腹部や胸を意識することなども、あるいは「従順」につながる心である気がする。
丁寧に生きる。
生活の一瞬一瞬を味わい尽くす。
あるいはそういうことを、エックハルトは教えているのではないだろうか。
(いわゆる禅者で悟りを開いた人と、エックハルトは共通の雰囲気がありますね。悟りは禅者としては、神秘主義ではない、と言っているようですが、悟った真の禅者であればそれがなんと呼ばれようが気にしない気も、します)