3月29日 「学ぶ」とはなにか。
多くの人は、「学ぶ」というのは所有する知識や情報や技術の総量を増やすことだと思っていますが、それは違います。「学ぶ」とは自分自身を刷新してゆくことです。学んだことによって学ぶ前とは別人になることです。学ぶことによって語彙が変わり、感情の深みが変わり、表情も発声もふるまいもすべて変わることです。「コンテンツ(内容物)」が増加することではなく、「コンテナ(入れ物)」そのものの形状や性質が変わることです。
昨日引用した内田樹先生のサイト、「内田樹の研究室」掲載の「受験についてのインタンビュー」 2023.8.29 より引いた。
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太字は私によるハイライトであります。
こういう「学び」があることを知ると、自身がバージョンアップする感じがして、わくわくするものだ。頭の中の脳みそのみならず、生き方や姿勢や目つきまでが変わってくるのだろう。
「やる気」「希望」「目標」といったものが、「学び」の結果自然と生まれてくるに違いない。
そこには「人からの強制」「世間常識からの強制」「やらされ感」がないはずだ。
端的に言って、パラダイス、と言ってもいい。
脳が「学び」で変化することは、内面であり一面「魂」の変化、魂の世話、ともいえようか。これはわかりやすく鍛えて身体が変化することとも類似しているだろう。
あまり好きな響きではない(強制感を感じるせいだろう)が、「健全な魂は健全な肉体に宿る」という語の本来の意味は、そういうところから来ているのではないだろうか。
いわゆる「サブカル」を我々がこんなに好きなのは、逆説的ながら「サブ」といわれることで、そのことを知り耽溺することがいわゆる「良くないこと」とされているからではないだろうか。
やってはいけない、がやると楽しいこと。
背徳的な楽しみ。秘匿すべき楽しみ。
だが今や「日本がカネを稼げる最上のコンテンツ」は「サブカル」ということになっているだろう。もはや「サブ」ではない、「メインカルチャー」というべきだ。
となると、背徳感が薄れてきて、天邪鬼な私のようなヒネクレ物は”ふん、正統派に祭り上げられやがって(実際は「落ちぶれやがって」に近い)”という気もしてくるというものだ。
「サブカル」ちゃんに罪はないのであるが。。。
大学でも真面目に研究すべき項目になり果てているのではないか。もっと「異端」であったほうが本来の「オモロイマンガ」が出てくるのではないだろうか。
まあ、どこまでいっても私の気持ちは「異端もの」「かくれてこそこそが基本MOVE」といったところから
逃れられそうもない。
(因果、でしょうね。。)