見出し画像

8月12日 同じものばかり食べない方がいい? 自発的ひらめきと、外部刺激によるひらめきについて。

さて、最近は自炊メインで、鶏むね肉や鯖を同じところで買っているが、肉にはすこしバリエーションを付けたほうがいいようだ。

うーん、どんな肉を食べればいいだろうか。牛肉?豚肉??

買ったことがない。。

しかしどうせ味噌汁にぶち込むだけである。
時には豚汁や、牛肉汁(そんなものある??)を作ってみるかなあ。。

鶏むね肉もたまにはもも肉にしてみるか。。。

同じ生産者、同じ部位だと、アレルゲンになる可能性があるとのこと。
いまはえごま油を使っているが、今度またオリーブオイルを復活させようかな。

とにかく健康には食べることが重要なので。。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

早朝のレモンに深くナイフを立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ

 葛原妙子(1907-1985)「橙黄」より

私は世界名作といわれていたヘルマン・ヘッセの”デミアン”を、だいぶんおっさんになってから読んだ口だ。

もとより現実より幻想に肩入れしたい気質で、それはしかし“肩入れ”ではなく”逃避”の要素が大きいのだろうと思っている。

デミアン、は確か読売新聞で紹介されており、その時挿絵的に掲載されていた銅版画にも深く心を撃たれたのだった。

その銅版画は、高田美苗氏のものであった。その絵にも強く惹かれ、同書を初めて手に取ったのだった(その後同氏の銅版画蔵書票「少女と海月」を同氏サイトより購入させて頂いた。その後自ら銅版画蔵書票を作る大きなきっかけとなった)。

以下が当時の挿絵として示された銅版画。タイトルもデミアン、である。

「Demian」高田美苗 | ギャラリー枝香庵

天使の翼と悪魔の翼。
そこでは”アプラクサス”と呼ばれた神的存在が暗示されており、異端として歴史より抹殺された”グノーシス主義”への私自身の意識のアクセス機会となった(興味深いことに、グノーシスで示されるのは、ABRAXASである。プ、ではなく、B=ブ、である。当然ヘッセは知っていたはずなので、敢えて近い表記ながら違う存在である、とあるいは設定したかったのであろうか)。

ヘッセも関係したというユング自伝下巻でも、ユング自身がグノーシス派の一員であるかのごとき意識で書いた文章がある。
ここ日本で考えるより、現代に近い時代の住人であるにせよ、キリスト者がグノーシスを語るには禁忌感があったのだろうか、匿名で死後公表されたともいう。

(今身近に同書がないので、ちょっとうろ覚え。あるいは記憶違いがあるかもしれない)

そんな入口から、いわゆる”神秘思想”という流れを垣間見ることになった。長く続く、そして時には異端ともされ迫害される思想。基本は”自己の魂が神経由で存在している、あるいは神の一部である、ということを信じる”ことだと理解している。

プラトン、あるいは“新プラトン主義”と言われる思想とも親和性が高い。

一方、あくまで神と人間の魂は別だとするのが、いわゆる”正統派”カトリックである、というのが私の今の個人的理解である。

短歌、という世界は未だほとんど関わったことがないが、いわゆる日本的伝統花鳥風月、という印象とは別の、戦後短歌、というものがあるようだ。

引用した葛原妙子は、”超現実主義短歌”と呼ばれ、塚本邦雄から「幻視の女王」、中井英夫から「現代の魔女」などと呼ばれたという。神秘主義思想などとも親和性がありそうだ。

塚本邦雄といえば、かつて一番弟子として我が敬愛する吸血鬼譚を多くものした須永朝彦氏のことなども思い出す。
世田谷美術館のサイト(以下添付)を見れば須永は25歳の時葛原の元に使いにだされて知己を得たという。1907年生まれの葛原と1946年生まれの須原、約40年の年齢差がある。25歳で出会ったとすれば、1971年ころか、当時葛原は64歳位になる。
前年、第七歌集『朱霊』を上梓、丁度迢空賞を受賞したころだろうか。

世田谷文学館 - 文学を体験する空間|本と輪 この3冊|須永朝彦さん(歌人) (setabun.or.jp)

黄金は鬱たる奢りうら若き廃王は黄金の部屋に棲ゐき

わが椅子の背中にとまる白天使汝友好ならざる者よ

暑熱微范破屋に幼児イエズスは赤き柘榴の実もて遊びき


3句追加引用したが、書かれた当時の旧かなづかい旧字でのほうが、雰囲気は伝わるであろう。


話がとっちらかった。
ここで言いたかったのは、朝、夜のあいだに記憶を整理したあとのエネルギー(シュタイナーによれば、寝ている間にエーテル体?が自身を抜けてエネルギーを得ている)に満ちた状態であれば、自然となにかと考え付いて何かを書き出せるが、

午後になるとエネルギーが枯渇して、作業、頭を使わない行動しかできない、ということだ。

だがこうしてノートの抜き書きで、一句紐解けば、そこからの連想でなんとか何かが書ける、ということである。

つまりは朝は”自発的ひらめき”が可能、午後や夜は”外部刺激”による強制的なひらめきでないと来てくれない、ということであった。

(短歌というのも、面白そうですね)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。