11.23 感覚がないと魂は感じないのかな?エゴを注視すること。
さて、昨日は土曜日のことを書いた。セレンディピティというと大げさだが、失敗したなあ、と感じたときは、この失敗してよかった、と思うようなことをしよう、と思うようにしている。
土曜はおかげで葛西臨海公園のことを知った。海が見たくなったら行けばいいところを発見した。それほど遠くはない。
先週は出張で結構昼食をたっぷり食べたおかげで66.6kgまで体重が上がっていた。ちょっと太り気味である。これが定着すると落とすのがつらくなるなと思っていたが、土日2日間で1.2kg落ちた。これは昼食を基本食べないでいたせいである。あと歩き。土曜は16000歩、日曜も歩き、月曜も1万歩以上あるいたので、本日は64キロ代まで戻ってきた。体脂肪は10,1%であったが、これはもう時間や運動の有無で乱高下するからなあ。。
あることでやらかしてしまい、朝からだいぶへこんでいる。小林秀雄は、戦時中に戦争を賛成する文章を書き、戦後「反省」している文筆家たちを見て、たんと反省すればよい、とその表面的なとり繕いを強烈に批判している。そのことなどを考えると、簡単なへこみや反省は厳につつしまねばならない。
エゴは安易な反省を求める。反省して落ちることは、ある意味「生きること」をマイナスではあるが深めるからだろう。エゴは宿主というか、担当する「魂」がとにかく長く「生存」すること、この世にいることを自動的に求める機能だ、と個人的には思っている。
だが問題は、生きていればいい、となることだ。マイナスの感情を持っても、感情を持つことは生きることにつながる、とたぶんエゴにはインプットされているから、特段マイナス思考をとどめようとはしないのだ。
なので、意識的にエゴの働きに正面から対峙して、それがとにかく安易に「反省」「落ちこみ」に至ることを抑えなければならないと思っている。
安易な反省は、自身の状態が悪いことにより、原因となることや人への恨みにつながる可能性がある点が問題なのだ。
(相手への恨みに、つながるようなどうしようもなさが、エゴにありますね。。)