1月23日 トイレにするか富士山にするか。
さて、最近は出張が多くなってきた。少し前はコロナで移動するな、という雰囲気であったが、今は移動は気を付けて行え、という雰囲気になってきた。
その時にすこし悩むのが、どの席に座るかである。東京、名古屋間であれば、基本2列席の窓側に座る。天気がよければ富士山が見えるからだ。
私は富士山が好きで(まあ嫌いな人はあまりいないだろうが)、空や雲を見るのも大好きである。富士山と雲と青空のコンボは大変魅力的である。
だが問題もある。トイレが近いのだ。
すこし前は2人席は一人で利用できる時が多かったが、今は横に人がくることもある。すると「おしっこ」に行きにくいのである。
まあ、気にしなければいいが、PCを打ちまくっている人に、「おしっこ」というのは少し勇気がいる(自分調べ)。
ということで、景色が見られないときは、やはり通路側が気楽だろう。いつでも「出撃」できるからだ。
加えて、尿酸値が高いので、1日2リットルの水を摂取したいわけだが、冬になるとどうしても飲む量は少なくなる。通路側であれば、遠慮なくゴクゴクできるわけだ。
ということで、この日記、通路側にて打っている。
さて、この世に住んでいて、「世界をどのように」思うのかは、義務ではなく、まあなんというか本能というか、生きるときの技というか、生きやすくなるためには考えたほうがいいかなあ、というような項目であるだろう。
世界は意味があるわけでなく(意味はだれか、あるいはなにかが与えるものではない)、生まれたからには生きるしかない、という一見アキラメににた開き直りにもにた、諦念、しかしこれが一回回って生きる知恵でなないのか、というようなことを池田晶子さんの著作をよんだりするなかで思うようになった。
存在とは、考え方で、時間、も考え方だ、と思うようになった。
「考え方」とは、そう考えてみてもいいね、というような意味である。
だが、存在や時間は明確に「わかる」ものではなく、そういうものとして仮にしておこうよ、と思うことにする、ようなものだろう。
冒頭の文、存在、というものを忘れて、ただ文字(テクスト)が示し、その働きをも示す、ということだけが、この世で起こっていることだ、というようなことかと個人的には思っている。
(楽しみのために考える、という世界が、哲学の世界にはある気がします)